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今週の説教 きずな 説教集

今週の説教

2007年6月10日 聖霊降臨後第2主日礼拝

「赦し、それでいい」

ルカ福音書6章37-49節


関野和寛

 先日、あるフィンランドの牧師が「教会はガソリンスタンドだ!」と言っていました。彼はフィンランド人ですが、初めて日本にやってきた時日本のガソリンスタンドのサービスの良さに感動したのです。

 今でこそセルフサービス(自分でガソリンを注ぐ)スタンドが増えてきましたが、日本のガソリンスタンドは入ったとたんに店員が駆け寄ってきて「はいオーライ オーライ はいストップ いらっしゃいませ!」と笑顔で迎えてくれ、注文を聞いてくれます。注文をすると今度は「灰皿やゴミはございませんか?」と車の中のゴミを捨ててくれ、ガソリンを入れている間に二人三人の人が車のガラスやミラーを拭いてくれます。そしていざガソリンが満タンになると「お帰りはどちらへ?」と安全に道まで送り出してくれます。この日本のガソリンスタンドサービスは世界一だそうです。

 そして「教会はガソリンスタンド」、皆さんを笑顔で迎えたいと思うわけです。でも考えてみればガソリンスタンドの満足度が高いのはやはり窓やミラーを拭いてくれ、車内のゴミを捨ててくれる瞬間があるからでしょう。しばらくきれいにしていない部分、手の届かない所を洗い上げてくれるから心地がよいと思うのです。

 わたしたちも過ぎ去った一週間の中でガソリン、元気を使い果たしてしまい。時に人を傷つけたり、傷ついたり、沢山の想いを抱え込んでこの教会に辿り着いています。正直、誰もが渇いて疲れて、汚れきっています。教会はガソリンスタンド、わたしたちは今日この礼拝に足を止めてイエスさまの言葉に耳を傾けるのです。

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすればあなた方も罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい、そうすればあなたがたも赦される。」

 この御言葉を一言でいうと、自分の中にある罪に目を向けよということです。人を裁く罪、他者を悪と決め付ける罪を悔い改めよとイエスさまは語るのです。イエスさまはこの言葉を12人の弟子を選んだ直後に語りました。つまり弟子になる者の大原則を語っているわけです。

 弟子たる者神の国を人々に広める者は、何かを教えるたり押し付けたりするのではなく、まず自分の中に罪にまず眼を留めなくてはいけないということを主は語りました。これから大勢の人々に出会うだろう、理不尽なことを言われ、ひどい仕打ちを受けるであろう。でも決して人を恨んではいけない、人を悪とみなしてはいけないということを弟子たちに語ったのです。そしてこれは絶対に忘れてはいけない戒めでした。

 皆さん礼拝で主の祈りを祈っていますでしょう。多くの人がそらんじて祈れるはずです。「われらに罪を犯すものを我らが赦すがごとく、われらの罪をも赦したまえ。」 皆さん本気で祈っていますか。祈り流してはいないでしょうか。「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく(わたしたちに罪を犯すものを赦しますから)」と祈っていますか。

 あいつだけは赦せない。誰がなんと言おうとあの人が200%悪い!」わたしにも、赦せない人が何人も居ます。普段はにこにこしていますが、思い出すだけで腸が煮えくり返りそうな人が居ます。そういう馬鹿とは付き合わないのが一番、相手にしないのが一番です。と言いたいところですが。でもそのような相手これだけは赦せないという相手だからこそ、その人の為にわたしたちは祈るのです。それこそが主イエスさまの命令だからです。「人を裁くな、罪人だと決め付けるな、赦せ」という命令だからです。

 なぜこの命令か、それは人を何処までも赦し続ける事によらなければ得られないものがあるからです。自分が少しも悪くなくとも相手を受け入れる事、そこでしか得られない恵みがあるからです。

 人を批判し、裁き続ける心には蓋が閉まってしまいます。例え自分に非がなくとも200%正しかったとしても、人を悪く思う瞬間わたしたちの心もまた罪に染まりだすからです。「あの人は間違っている、このことだけは絶対に赦せない」、けれどもそう思った瞬間わたしたちは独善的になってはいないでしょうか「あの人が悪い、自分は正しい」と。

 イエスさまは人の心を見事に捕らえました。「自分の目には丸太があるのに、人の目のおがくずを取るな」、「あなたにも罪がある、それは相手の罪よりも大きいのだ」と。パウロは語りました「義人はいないひとりもいない」と。神さまの目から見るならば、全ての人に罪があるのです。誰も罪を犯していない人などいなく所詮は人間の基準で罪の大小を比べ合っているに過ぎないのです。

 誰にでも罪があります。罪という言葉の聖書の語源は「まとはずれ」という言葉です。罪とは犯罪を犯していない状態や、倫理道徳に反していない状態のことではありません。罪とはわたしたちの心が神さまに向いていない状況を言うのです。自分勝手な感情や相手を裁く怒りに支配され神と深く交わる心を忘れた状態こそが罪なのです。

 パウロは語りました「罪の報酬は死である」と。罪に支配される心は嫌悪感と失望に満たされ蝕まれていきます。どんなに自分の行いが正しくとも、人を憎み裁く心には罪が忍び込んでくるのです。人を憎む心、相手を批判する心、そして自分自身をも憎む時わたしたちの心は空しさと絶望に支配されていくのです。

 だからこそ教会はガソリンスタンドなのです。わたしたちの心に詰まった罪を吐き出して、こべりついて離れない汚れや罪を洗い流してもらうのです。それがこの教会です。そしてわたしたちは教会で新しい力を貰うのです。だからこそ礼拝には罪の告白があり、主の祈りがあるわけです。わたしたちはそこに自分の存在の全てを委ねていくのです。その罪の告白に自分に詰まっている苦しみを吐き出して行くのです。

 わたしたちが罪を犯すことは避けられません。誰も心に悪を思わない日は1日たりともありません。どんなに気をつけても人は汚れていきます。でも汚れているのが悪いのではありません。汚れていないふりをすることがいけないのです。罪を隠し、罪がないかのように歩むことがよっぽど危険なことです。神はそのような心をお喜びにはなりません。罪を隠すということは、自分と十字架を切り離すことです。自分に罪の赦しがないとするのであれば、それはあの十字架からキリストを引きずり降ろすことに他ならないのです。

 とても苦しんでいる時、辛い「時本当に神はいるのだろうか」と思うことがあります、でももしわたしたちにキリストが見えないのだとしたら、それはわたしたち自身がキリストをあの十字架から引きずり下ろしているのかも知れません。もし自分の中にはある罪を全く無視して、相手だけを責め続けるのであればそれはあの十字架の上で苦しんでいるキリストの体にもう一発釘を打ち付けることになりませんでしょうか。

 あの十字架の本質から目をそらしてはいけません。キリストはあの十字架の上で赦しを語りました。自分の命を奪うものにさえ「父よ彼らをお赦し下さい」と語ったのです。隣で十字架にかけられていた犯罪人には、「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と言いました。その人の今までの罪を赦し、その人の存在を包み天国へと誘っていったのです。

 この世に悪い人などいません。誰も悪くはありません。罪に汚されている人が多すぎるだけです。罪に汚され過ぎている人が多いだけです。たった一つの不満が全てのことを見えなくしてしまうのです。たった一つの不満、一粒の悲しみを吐き出してください。ガソリンスタンドでガソリンを満タンにしてもらうためには、自分が空っぽなこと、もう前に進めないことを知っていなくてはいけません。自分が汚れていることを知っていなくてはいけません。

 皆さんは渇いています。一週間の歩みで疲れきり汚れきっています。だからこそようこそ今朝も教会へ来てくださいました!ガソリンスタンドがなかった当時のパウロは「教会はキリストの体である」と語りました。この教会はあの十字架で傷ついたキリストの体です。わたしたちの痛みや苦しみを取り除くために苦しまれたキリストの体です。罪人を赦したキリストの体です。ありのままのわたしたちを赦すキリストの体です。

 教会はキリストの体です。死という恐怖さえも打ち破り、人々に終わることのないいのちを与えたキリストの体です。エマオで弟子たちを追いかけたキリストの体です。

 だからこそわたしたちはガソリン満タン、聖霊を満タンに受けて歩んでいきましょう。神はわたしたちの懐に幸せを押入れ、揺すり入れ溢れるほどにしようとしているのです。溢れるばかりの恵みの1週間を皆で過ごしていきましょう。

 

 

2007年5月20日 昇天主日
東京教会 小石川教会

「地の果てに至るまで」

使徒言行録 1:1-11  エフェソ 1:15-23  ルカ 24:44-53

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 イエス様の弟子たちは、ここ数十日を目まぐるしい思いで過ごしたのではないでしょうか。最後の晩餐でイエス様から遺言めいたことを聞いたかと思うと、イエス様がユダヤの指導者に捕らえられ、総督ピラトに引き渡されます。ピラトは、何の罪も見いだせないのに、群衆に押されて十字架刑を認めてしまいます。十字架で息を引き取られたイエス様は、安息日が来ないうちに大急ぎで墓に納められます。週の初めの日、充分な葬りをしたいと思って墓に行った女たちから、イエス様のご遺体が墓にないと知らされます。弟子たちが、「ローマはイエス様のご遺体まで奪うのか」と恐れを抱いているところへ、復活されたイエス様が現れられます。そのイエス様が、40日間、地上で過ごされた後、天に昇って行かれました。それが、きょうなのです。

 弟子たちは、どのような思いで、天に昇られたイエス様を見送ったのでしょうか。そもそも、弟子たちはどのような思いでイエス様について来ていたのでしょうか。そのヒントとなる聖句があります。それは、きょうの第一の日課の使徒言行録一章六節の「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という、弟子たちのイエス様への質問です。
 イスラエルの民である弟子たちには、神様から選ばれた民であるイスラエルが、ローマに占領されていることはあってはならないことでした。一日も早く、ローマから解放され、自分たちイスラエルこそ、世界に君臨する国にならなければならない。あのダビデ王国の復興を一日も早く実現させなければならない。そのためにローマとの戦いを勝利に導いてくれるメシアをイスラエルは必要としている。そのメシアこそ、このイエス様だ。弟子たちは、そのような期待をもって、イエス様に弟子としてついてきていたのです。
 そのイエス様がローマに捕まり、十字架であっさりと死んでしまわれました。弟子たちは大いに落胆しました。落胆するどころか、ローマの手は、弟子である自分たちにも及ぶのではないかと恐ろしくなりました。そこへ、復活されたイエス様が現れられたのです。
 弟子たちの恐れは、再び喜びに変わりました。あきらめていたダビデ王国の復興が今度こそ実現する。復活されたイエス様にお会いした弟子たちは、そう確信しました。そして、イエス様から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われて、弟子たちはあの「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問うのです。
 実は、この時に至っても、弟子たちは、イエス様がメシアであられることの意味を、従って、自分たちが弟子であることの意味を、分かっていないのです。弟子たちは、ここに至ってもなお、ダビデ王国の復興をもたらすメシアをイエス様に期待しているのです。その弟子たちにイエス様は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と、弟子であることの意味を語って、天に昇られるのです。
 しかし、弟子たちはこの時はまだ、イエス様が語ってくださったこの弟子であることの意味を理解することはできませんでした。それを弟子たちが理解し、自分たちが弟子であるとはどういうことかを自覚したのは、あの聖霊降臨を体験した後でした。

 ここで、不思議なことが起こっています。弟子たちは、相変わらずダビデ王国の復興をもたらすメシアとしてイエス様に期待しています。そのイエス様が、まだダビデ王国が復興していないのに天に昇って行かれました。弟子たちは再び落胆したはずなのにどうでしょうか。
 きょうの福音書の日課の51節、52節をみますと、「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」とあります。ここに「大喜びで」とあるのです。弟子たちが期待したダビデ王国の復興はまだ実現しないままで、イエス様が天に昇って行かれたのに、弟子たちは大喜びでいるのです。これはどうしてでしょうか。その答えは、使徒言行録にあります。それは、一章十一節の「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」という天使の言葉です。
 天使は、弟子たちに、イエス様は「またおいでになる」と告げるのです。この言葉が、弟子たちを力づけたのです。弟子たちは、この言葉によって、あのダビデ王国の復興という希望を繋ぐことができたのです。それ故に、彼らは、「大喜びで」エルサレムに帰っていったのです。
 しかし、この弟子たちは、その後、聖霊が降ったとき、イエス様が何ゆえメシアなのか、従って自分たちが何ゆえ弟子なのかを明らかにされます。イエス様は、ダビデ王国を復興するメシアではないことを知るのです。

 では、イエス様がメシアであるとはどういう意味なのでしょうか。弟子たちは、何をすることが弟子として生きることになるのでしょうか。その答えは、きょうの福音書の46節から48節にあります。
 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」このように記されています。
 イエス様の名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。その証人となるのが弟子たちの務めである、とここには記されています。ダビデ王国の復興ではなく、罪の赦しを得させる悔い改めを地の果てに至るまで証しすること、それが弟子たちの務めなのです。

 「公務員も弁護士も大学教授もイヤ」「日本『出世したい』8%」「高校生意欲調査米韓中より低く」
 4月25日付け毎日新聞1面の囲い記事の見出しです。日本の高校生はアメリカや韓国や中国よりも「出世意欲」が低いのだそうです。
 次のような記事が載っていました。
 「将来就きたい職業」では、公務員を選んだ高校生が99年調査より約22ポイントも減少し、明確な目標を持てない日本の高校生の実情が浮んだ。」
 「偉くなりたいか」という問いに、「強くそう思う」と答えたのは中国34.4%、韓国22.9%、米国22.3%に対して、日本はわずか8.0%」
 「将来就きたい職業では、日本は99年調査よりも弁護士や裁判官、大学教授、研究者の割合が低下。特に、公務員は前回の31.7%から大幅減となる9.2%だった。逆に『分からない』を選んだ生徒が6.2ポイント増の9.9%になった。」
 そして、この調査をした機関の理事長の言葉が次のように紹介されています。
 「食べることに困らなくなり『偉くなりたい』という意欲がなくなってきている。また、(『出世』とされた)職業に魅力や権威がなくなっている。」
 これは、一言で言えば、社会の将来を担う高校生が、生きることに意欲を失っているということです。そして、重要なことは、「食べることに困らなくなり」ということです。食べることに困っている間は、食べることに一生懸命でした。できるだけ食べられるように、しかも確実に食べられるように、少しでも収入が良くなるように、一生懸命でした。
 それが、今、食べることに困らなくなりました。そのとき何が起こったのでしょうか。実は、食べることに一生懸命な間は見えなかったものが見え出したのです。気付かなかったものに気付き出したのです。それは何か。それは、「人はなんのために生きるのか」という問いです。
 人は、食べることに困っている間は、食べることで精一杯で、「何のために生きるのか」ということを考える暇がありませんでした。「何のために生きるのか」という疑問をもっていなかった訳ではありません。疑問を持ちながらも、幸か不幸か、その疑問に立ち向かう心の余裕がなかったのです。それが、食べることの困難さから解放された途端に、心の奥に押し込められていた「人はなんのために生きるのか」という問いが、頭をもたげてきたのです。

 この問いは、人類が神様に逆らって以来ずーっと抱えていた問いです。神様の愛の相手として造られた人間は、神様の愛の相手として生きることを拒否して以来、何のために生きるのか分からなくなってしまいました。自分が神様に逆らっていることがその原因であることに気付くこともなく、人間は、苦しみと不安と空しさの中で行き続けています。
 食べることに困っていた間は、食べることに精一杯で、生きることの苦しさとか不安とか空しさを感じる余裕はありませんでしたが、その食べることの困難さから解放されると自ずとそれらが頭をもたげて来るのです。そして、それは、「人はなんのために生きるのか」という問いへと凝縮されるのです。
 今、「偉くなりたい」という意欲をなくして来ている高校生は、この「人はなんのために生きるのか」という問いの前で立ち往生しているのではないでしょうか。そして、これは、ただ、食うことに困らなくなった国の高校生の問題であるだけでなく、全ての人間の問題なのです。人は、いつか、必ず、「人はなんのために生きるのか」という問いの前に立たなければならないのです。なぜなら、実は、全ての人が、既に、心の奥にその問いを抱え込んでいるからです。

 イエス様は「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と仰いました。イエス様は、全ての人間が、「人はなんのために生きるのか」という問いを心の奥に抱えながら生きていることを御存知なのです。そして、その問いの答えは、神様との出会いによってしか得られないことを御存知なのです。そして、その神様と人との出会いは、罪の赦しという仕方で起こることを、その罪の赦しは、人の悔い改めによって起こることを御存知なのです。

 人類は、生きることの苦しさと不安と空しさから解放されたいと、ありとあらゆる努力をして来ました。その結果、いろいろな宗教や哲学が生まれました。しかし、人類は、依然として、生きることの苦しさと不安と空しさから解放されてはいません。
 それには原因があります。人類は、それを神様抜きで解決しようとしているからです。そのような無駄な努力をしている人間に、神様ご自身が救いの手を差し伸べてくださいました。
 この救いの手は、ユダヤから始まりました。この救いはユダヤだけのものではありません。全人類のために与えられているものです。イエス様は、この救いがユダヤだけのものではなく、地の果てに至る全ての人類のものであることを明らかにするために、今、ユダヤを離れ、天へと帰って行かれました。
 そして、今、そのイエス様に代わって、聖霊がこの地球を覆っています。聖霊が、イエス様の十字架と復活によって、私たちの罪が赦されていることを私たちに明らかにしてくれます。今、私たちは自分が神様の愛の相手であることに気付かされ、「人は何のために生きるのか」という問いを心の奥にしまい込むことなく、堂々とこの問いと向かい合うことができます。
 神様がご自身の喜びのために、私をお造りくださった。そこに、私の生きる意欲の源があります。

 今、この世は呻いています。その根本は、一人一人が、生きることの苦しみと不安と空しさから解放されていないからです。その原因が、自らが神様に逆らっていることにあるのだということに気付いていないからです。その逆らいが神様によって既に赦されていることを知らないからです。

 全ての人間の罪は赦されました。イエス・キリストの十字架と復活によって、既に、罪赦され、命の輝きを取り戻すことができたことに感謝し、この喜びを、地の果てに至るまで宣ベ伝えて参りましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

2007年5月13日 復活後第5主日

「イースターの夜」

ヨハネ福音書14:23〜29節

関野和寛

 今日は復活後第5主日の礼拝をみなさんと一緒に守れることをとても嬉しく思います。みなさんどうですか、5月病なんかにかかっていないですか。暖かい陽気な天気とは逆に気持ちが前向きにならない時もあるでしょう。
 実はわたし先日の夜凄まじい金縛りにあいました。わたしが寝ていると家の窓ガラスを誰かが物凄い勢いで叩き出すのです。恐いですよ〜、夜中誰も来るはずのない時間に窓ガラスがガシャンガシャン音を立て出すのですから。しかも体は動かない。そんな中で必死に扉を見つめているのです、誰かがここからわたしを殺しに入ってくるのではないか・・・。そんな金縛りでした。けれどもわたしは金縛りを解く方法、「祈り」を知っています。
 「イエス・キリストの御名によって金縛りを解く!」そう心の中で3回叫ぶのです。恐いのですけれども、この祈りがあるから安心していられるのです。どんなに恐怖心があっても大丈夫です。イエスさまの十字架の力の方が金縛りより強いと知っているからです。もし、金縛りや不安な気持に襲われることが多い人は是非祈ってみて下さい。「イエス・キリストの名によって心よ落ち着け!」と。

 本当の恐怖や不安とはいつそれが終わるか分からない時が一番恐いものです。けれどもその終わりが見える時にはじめて、気持が和らぎ出していきます。そして祈る人の心は恐怖や苦しみの一歩先を見ることができるのです。でもどうでしょうか教会ではよく「お祈りしています」なんて言葉をよく耳にしますが、誰もが気休め程度にしか考えていないのではないでしょうか。牧師もそうです、困った時は祈りましょうと何でも「祈り」で片付けてしまいがちです。

 でも本当の祈りはその人に道を切り開きます。その人の中にキリストがいるからです。マザーテレサはこう言っています「祈りは心を広くしてくれます。神さまを賜物として心の中にお入れできるほどに広くしてくれます」と。つまりマザーテレサは祈りとは神さまを自分の心に入れることであると言っているのです。実に今日先ほどお読みしました福音書がそのことを語っています。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き一緒に住む」(ヨハネ福音書14章23節)

 そう神さまがわたしたちの中に住むというのです。祈りとはただ目を閉じて願うことだけではありません、式文の祈りを唱えるだけが祈りではありません。クリスチャンの祈りとはイエスさまを愛し、イエスさまのことばを守っていくことです。そして人々に仕え生きていくのがクリスチャン祈りです。

 ではイエスさまの言葉を守るとはどのようなことでしょうか。わたしたちが読んでいるヨハネ福音書のイエスさまの一番大切な言葉は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉です。イエスさまはこの言葉を十字架に掛かる前、弟子たちの足を洗いながら語ったのです。足を洗うとはイエスさまの最高の愛の行為でした。先生であるイエスさまが弟子たちに跪き、足を洗うのです。

 これがイエスさまの愛であり、弟子たちを愛しぬく祈りでした。皆さんは、このような祈りを持っているでしょうか。このように人に跪き仕えることが出来るでしょうか。人は愛について語ってもそれを実践するのがとても難しいものです。ましてや人の一番汚い部分に関わっていくことはとても難しい。愛し仕えていくならばまだいいものの、嫌いな相手や出来事に関わっていくことなんか絶対にしたくないものです。それはわたしたちの心がいつも選り好みをしているからです。

 最近なぜか見知らぬ人に言いがかりを付けられることがとても多いのです。やはりいかなる理由であろうとも初めてあったひとに文句を言われるのは気持ちよくありません。信仰どころか理性まで吹っ飛んで、「なんだこの野郎!」と言い返したくなることがあります。そんな時はなんとかこらえて冷静になるようにしていますが、わたしたちのこころや気持ちは本当に毎日毎日そして一瞬一瞬揺れ動いていきます。皆さんもそうだと思います、職場の中でまた家族家庭の中で、そしてひとりの時に色々と問題を抱えて苦しくなってしまうことが毎日のようにあるでしょう。心はこうやって毎日形を変えて行きます。
 達磨大使はこの心についてこんな事を言っています、「心というものは、なんと不思議なものだろうか。心が満ち足りている時は全世界をも抱えいれるほどなのに、一度心を閉ざしてしまうと針一本も立てる場所がないとは」。

 本当にそうだと思います。わたしたちの心は、大切なひとを前に心が暖かく広くなったり、苦手な人嫌いな人を前に冷たくなったり、嬉しいことに心を弾ませ、悲しいことに心を閉じてしまいます。そして時に病気の苦しみは自分自身や家族の心を苦しめやせ細らせてしまいます。

 でもこんなに辛い毎日だからこそ、こんなに壊れやすくてデリケートな心だからこそイエスさまはわたしと父はあなたの内に住むといってくださるのです。わたしたちの毎日、揺れ動いて心に線引きをしたり閉ざしたりしてしまう時にイエスさまがわたしたちの心に住んでくださるというのです。「ちょっと寄り道」ではありません神さま自身がわたしたち一人ひとりを住処とするのです。使徒パウロが「わたしの中にキリストが生きている」という通りです。

 主の姿を思い描いてください、イエスさまは上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとい弟子たちに跪き、そして足を洗いました。ただ足を洗ったのではありません。その足は汚かったのです。ただ汚いのではありません、これからイエスさまを裏切って逃げてしまう足だったのです。そこにはイエスさまを銀貨で売ったユダの足さえあったでしょう。そんな足さえ洗うのがイエスさまの愛です。たとえその足が何処へ向おうとも自分の運命を蹴り上げようともそれを洗い上げるのです。

 そしてそのイエスさまの言葉をもう一度聞きましょう今日の福音書の23節からです

「わたしは愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む」(ヨハネ福音書14章23節)

 わたしたちは「互いに愛し合いなさい」とのイエスさまの言葉を守り、そしてイエスさまが弟子たちの足を洗ったようにわたしたちもそれを行っていくのです。イエスさまが弟子たちひとりひとりの罪を赦しその足をその存在包み込んでいったように、わたしたちもこの愛の行いを実践していくのです。
 例え目の前にある出来事を、また目の前にいる人を受け入れられなくとも、どんな嫌でもそこに跪きそこに従っていくのです。イエスさまの言葉を守り、それを行っていくのです。それがクリスチャンの祈りだからです。そしてわたしたちが祈るとき初めて神がわたしたちの中に宿り住みはじめるのです。嫌な出来事や相手に仕えるなんて、とっても嫌でしょう。目の前に置かれた悲しい出来事を受け入れることほど時間がかかって苦しいことはないでしょう。

 けれどもそこで勝負です。わたしたちは自分の感情を一旦脇に寄せて祈るのです。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」「天国の神さまがいまこのわたしの中に居てくださる様に!」祈りの中に、わたしたちの中にイエス・キリストが宿るのです。そこには恐れがありません。そこには不安がありません。今日読んでいただいた黙示録の通りです、「都にはそれを照らす太陽も月も必要ではない、神の栄光が都を照らしているからである・・・諸国の民は都の光の中を歩き・・・そこには夜がない・・・」(ヨハネ黙示録21章)。

皆さんどうかこのキリストを心に迎えてください。太陽が落ちようとも月が砕けようとも、わたしたちの心を照らしてくださるのがイエス・キリストです。誰もが辛さを抱えながら一生懸命に心を前向きにしてがんばっていると思います。けれどもなすべきことは唯一、イエスさまの言葉を守り、イエスさまのように生きる。そこにこそ、そしてその心にこそイエス・キリストが宿るのです。悩むだけ悩んだら悲しみと付き合うのはやめて、このイエスさまと付き合いましょう。先が見えない夜こそイエスさまと歩きましょう。
 イエスさまが心にいる人は苦しみの先を見ることができます。死から復活して全てを照らしてくださるイエスさまがここにいるからです。その時心はキリストの平和で満たされます。そして心に溢れるキリストの平和がわたしたちの隣人を照らしていくのです。わたしたちの全てをかけて祈っていきましょう。これ以上人を強くするものはありません。これ以上人を優しくしてくれるものはありません。今日は特に母の日です全てのお母様方の上に神さまの祝福がありますように。そしてみなさんの心の中にイエス・キリストがいてくださいますように。

 

 

2007年4月8日 復活祭

「命の復活」

出エジプト 15:1-11  コリント第一 15:21-28  ヨハネ 20:1-18

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 「罪が支払う報酬は死です。」ローマの信徒への手紙6章23節の言葉です。ここには、死は人間にとって本来的なものではないことが示されています。死は、人間が神様に逆らった結果、人間自らが招き寄せたものである。これが、死に対する聖書の見方です。
 死によって全てが限界付けられ、死が私たち人間活動の全てを決定する。それが、私たちの死に対する考えです。
 お釈迦様も、「形ある物は必ず滅し、生あるものは必ず死す」と、死は命あるものにとって当然の出来事であると捉えておられます。
 しかし、聖書は、死は人間の罪の結果であると、言います。ならば、私たちの死に対する対処の仕方、いえ、命そのもの、生きることそれ自体への対処の仕方が変わって来なければなりません。そして、キリスト教の本質が罪の赦しによる救いであるならば、つまり、救いとは罪の赦しであるならば、救いは、その罪の結果である死から命が解放されることでなければなりません。つまり、人間の罪が赦されるとは、罪の結果である死から命が解放されることでなければなりません。死が最後の力を振るっている状況では、罪が赦されたことにはなりません。
 イエス・キリストの復活は、罪が赦された結果、命が死から解放されたことを証しするものです。命が死の力を打ち破った。そのことによって、私たちは、私たちの罪が完全に赦されたことを知ることがでます。

 そのイエス・キリストの復活は、初め一人の女性に示されました。イエス・キリストの十字架の死を見届けた多くの人たちの中で、最後までイエス様に着き従っていた女性たちは、その十字架の出来事が起きた時が安息日直前だったために、取るものもとりあえず、急いでイエス様の亡骸を墓に納めました。葬りの準備が充分になされていないことを気にしていた女性たちは、安息日が終わるのを待っていました。安息日が終わり、週の初めの日が来ると、まだ暗いうちに墓に出かけ、やり残していた葬りのための遺体の処理をしようとしました。しかし、マグダラのマリアが墓に着いてみると、墓の入り口を塞いであった石は取り除けられていました。イエス様の御遺体は、墓にはありませんでした。誰かが持ち去ったとばかり思ったマリアは、そのことを弟子たちに知らせます。
 弟子たちはそのとき、自分たちが期待していたイエス様への期待が裏切られ、意気消沈していました。意気消沈しているばかりではなく、イエス様を処刑したローマの官憲の手は自分たちにも及ぶのではないかと、恐怖の中でほとぼりが冷めるのをじっと待っています。そこに、イエス様の遺体が無くなったと言う知らせが届いたのです。弟子たちは「ローマはただ処刑するだけでなく、遺体までも取り上げるのか」と、益々恐怖をつのらせたことでしょう。ペトロとヨハネはそれを確かめてみたくて、墓へ走ります。そして、自分の目で墓が空であることを確かめます。

 このとき、墓が空であることを確認したこの二人の弟子は、そのことがイエス様の復活の出来事を示していると言うことには思いも及びません。彼らのイエス様への期待がそのことに思いが至ることを妨げているのです。
 彼らのイエス様への期待とは、かつてのダビデ王国の復興です。神様に選ばれた民として世界に君臨すべきイスラエルが、今、ローマに占領されています。これは、イスラエルの民にとって屈辱的なことです。一刻も早く、イスラエルはローマを蹴散らし、ローマにかわって世界に君臨しなければなりません。そのために、あの繁栄を極めたダビデ王国を復興しなければならないのです。弟子たちは、そのリーダーとしての働きを、イエス様に期待していたのです。弟子たちは、イエス様がローマと戦いを始められるのは今か今かと、その時を待ちあぐねていました。そのイエス様がとうとうローマの軍隊に捕らえられ、ローマ式の処刑である十字架にかかってしまわれました。十字架に懸かられても、弟子たちは、期待していました。今に十字架から降りてこられる。そしてローマの兵を一蹴される。最後の最後まで弟子たちはそのことを期待していました。しかし、そのことは起こりませんでした。イエス様は、一人の革命家が挫折するかのように、十字架の上で息を引き取ってしまわれました。
 弟子たちのイエス様に対する期待は裏切られてしまいました。そして、弟子たちに失望感と共に恐怖が襲って来ました。そのような恐怖の中で、空の墓を見た弟子たちには、イエス様の復活に思いが至るどころか、ローマの遣り方のしつこさに益々恐怖が湧いてくるばかりでした。
 聖書は「それから、先に墓に着いたもう一人も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った」と記しています。ここに「信じた」とありますが、これは、「墓にイエス様のご遺体がない」という女性たちの言葉を信じた、ということであって、イエス様の復活を信じたということではありません。聖書にあるとおり、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」のです。
 「それから、この弟子たちは家に帰って行った」とありますが、このときの弟子たちの思いはどのような思いであったでしょうか。とぼとぼと家に帰りながら、ただもう自分たちの身の安全を図ることしか心にはなかったでしょう。

 一方、マリアは、再び墓へ引き返します。彼女は、何とかしてイエス様のご遺体を取り戻し、ちゃんとした葬りをしたかったのでしょう。マグダラのマリアにとってイエス様は、ダビデ王国を復興させる指導者ではありませんでした。同じイスラエルの民から「地の民」と蔑まされ、自分自身も、神様から見捨てられた者として生きて来ざるを得なかった自分でした。その自分に、イエス様は、一人の人間として関わってくださいました。その自分が、神様に愛されていることを教えてくださいました。自分と神様との関係が、自分の罪にもかかわらず、神様によって回復されていることを教えてくださいました。このイエス様との出会いによって、この女性は、自分を人間として肯定することができるようになりました。人間としてこの世に生まれたことを喜ぶことができるようになりました。このイエス様のために、自分ができることをなんでもしたい、マグダラのマリアはそのような思いで、イエス様を葬った墓に来ているのです。

 そのマリアに、甦られたイエス様がお会いくださいます。イエス様を目の当たりに見たマリアは、弟子たちのところへ行って告げます。「わたしは主を見ました」と。
 今度のマリアのメッセージは、墓が空だったというのではありません。墓が空だというのは、それだけではイエス様の復活のメッセージにはなりません。誰かが何処かに持って行っただけのことかも知れないからです。しかし、今度のマリアのメッセージは、「わたしは主を見ました」というメッセージです。イエス様の復活そのものを告げるメッセージです。
 このメッセージは、弟子たちにはどのように響いたでしょうか。いや、今、ここにいる私たちにはどのように響いているでしょうか。

 人類は、文明の発達と共に、物質的貧困から解放され、その意味では、徐々に人間らしい生き方を実現させつつあるように思えます。しかし、その一方で、誰も回答を与えることのできない問いが頭をもたげて来つつあります。
 その問いとは、端的にいえば「命とは何か」という問いです。このいわば哲学的な問いが、ただ哲学の専門家の問いといとしてではなく、一人の人間の問いとして大手を振っているのが、今日の最大の問題なのではないでしょうか。「人はなぜ生きるの」とか「人を殺してなぜ悪いの」という問いが、子どもたちから真面目に発せられています。この問いに自信をもって答えることができる人がいるでしょうか。子どもに納得の行く答えを与えることができる人がいるでしょうか。
 「人の命は、地球よりも重い。」これが、これまで私たちが聞いて来た答えです。でもこれは、答えになっているでしょうか。これは、答えることを先送りしているだけではないでしょうか。
 大人は、自分たちも答えをもっていないくせに、子どもたちが命を粗末にしないようにと、いろいろな説得を試みます。しかし、どの説得も子どもたちを納得させることはできません。それは当然です。答えている大人自身が、納得していないのですから。

 ある人が仰っていました。「自分はたとえ病気で死んだとしても殺されたと思うでしょう」と。わたしは、この人の死生観は、健全だと思います。たとえ、お釈迦様から「形あるものは必ず滅し、生あるものは必ず死す」と言われても、死を本来のこととして受け入れられないのが本当の人間の姿なのではないでしょうか。罪が支払う報酬は死です」という聖書の言葉は、そのことを教えてくれているように思います。

 私たちが命の問題を解決できないのには原因があります。それは、神様抜きで人間の命の意味を見出そうとするからです。神様と向かい合わない人間の命には、何の意味もありません。
 人間が、文明の発達によって物質的に人間らしい生き方ができるようになっていくに従って、命の問題がその人の中で大きくなっていくのは、人は、神様と向かい合うことなしには自分の命の意味を見出すことができないからです。そして、その人間の命は、死によって限界付けられている命としか思えません。わたしたちは、今、「命とは何か」という問いの前で立ち往生をしています。

 そのような私たちに、一条の光が差し込みます。イエス・キリストが甦られた」というメッセージです。命は死以上の力をもっています。神様が永遠であられると同じように、神様かあら与えられた私たちの命も、永遠の命なのです。
 この神様との向かい合いの中で、私たちの命はその存在の意味を発揮します。神様と向かい合うとき、私たちの命は自ずと躍動します。この躍動こそが、あの子どもたちの「人はなぜ生きるの」という問いへの答えです。
 「罪が支払う報酬は死です」と語る聖書は、「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」と続けています。

 神様が、神様ご自身の喜びのために、私たち一人一人を人として造られ、永遠の命を与えてくださいました。その神様に逆らい、死を招いてしまった私たちの罪を赦し、神様は、再び、私たちに永遠の命を回復してくださいました。
 本来の命へと復活した命を、私たちは今、生きています。神様を褒め称えつつ、神様に感謝しつつ、与えられた地上の歩みを歩み続けて参りましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年3月18日 四旬節第4主日

「神様の喜び」

イザヤ 12:1-6  コリント第一 5:1-8  ルカ 15:11-32

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 きょうの福音書の日課は、「放蕩息子」という題のついた、新約聖書の中で1、2を争うほど有名なたとえです。
 このたとえは、この15章の他の二つのたとえと共通のテーマをもっています。その共通のテーマは何かといいますと、それは、それぞれのたとえの最後を見ると分かります。最初の「見失った羊」のたとえは、「大きな喜びが天にある」という句で終わっていますし、2番目の「無くした銀貨」のたとえは、「神の天使たちの間に喜びがある」という句で終わっています。そして、最後の「放蕩息子」のたとえは、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という、神様にたとえられている父親の言葉で終わっています。すなわち、この三つのたとえに共通のテーマは、「神様の喜び」なのです。
 このルカによる福音書15章は、「神様の喜び」についての3題話しといったところなのです。

 さて、この問題の息子は、父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言って、もらった分け前を金に換え、それを持って家を出ます。
 これは、私たち人間のどのような状況をたとえているのでしょうか。これは、人間の自由と自主の問題だといえます。人間は、何者からも束縛されず、自由に生き、自分のことは自分で決める生き方をしたいと思っています。
 これ自体は、ある条件のもとに正しいことです。その条件とは、相手が同じ人間である場合は、ということです。人間は、他の人間に対して、自由に生き、自分の生き方は他の人間に束縛されずに自分で決めたいと思っています。これは、正しいことですし、むしろそうあるべきです。だが、人間はどの人間に対しても自由であるからといって、自分で自分を存在させている訳ではありません。そのことを勘違いしているのが私たち人間の最大の問題です。
 息子は、父親なしで生きて行きたいと思います。父親なしで生きて行けると思っています。そして、父親のもとを離れます。
 私たち人間の最大の誤解は、自分は神様なしで生きていけると思っていることです。神様なしの方が、より人間らしく生きることができると思っていることです。

 私はよく、人間と神様との関係を凧上げの凧にたとえますが、この息子の家での状況は、凧がもっと自由に空を舞いたいと思い、それを妨げているのは、この糸だと思って、凧の糸を切ってしまうようなものです。凧は、糸が切れた瞬間は、ひらりと舞い上がります。でも、次の瞬間どうなるでしょうか。凧は、墜落の一途をたどるばかりです。
 きょうのたとえでも、この息子は、家出をした当初は、金にあかせて好き勝手な生活をします。まるで、思い通りの自由が手に入ったといわんばかりです。しかし、それはつかの間のことです。息子は、直ぐに、食べるにも困り始めます。
 これは、神様抜きで生きている人間が、心のそこで感じている生きることの苦しさと不安と空しさを意味しています。神様抜きの人生が如何に悲惨なものであるかを、きょうのたとえは、次のように言い表しています。
 この息子は、ついに、外国に身を寄せ、豚を飼う人の世話になります。そして、豚の餌ででも腹を満たしたいと思うほどになってしまいます。この息子は、ユダヤ人です。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物です。この息子は、その豚を飼う人の世話になっているのです。豚の餌を食べてでも飢えをしのぎたいと思っているのです。この息子の人生が如何に悲惨であるかが伺えます。

 次に息子は、そのような悲惨さの中で、我に返って言います。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」そして、彼は、父親の元に帰ります。
 これは、私たちが人生に疲れ、慰めと癒しを求めて、教会の門を叩く姿ではないでしょうか。
 このとき、この息子は、悔いています。父親の元を出てしまったことを。そして、正直に告白しています。自分が父親なしでは生きて行けないことを。しかし、この息子は、まだ、父親の心が分かっている訳ではありません。そういった意味では、この息子には本当の悔い改めはまだ起っていないのです。

 この息子は、恐る恐る父親の元に帰って来ます。「親爺は怒っているだろうなぁ。お前なんか家の敷居をまたぐなと言って追い返すかもしれないなぁ。でも、雇い人の一人としてなら置いてくれないだろうか。雇い人でもいいから置いてくれないかなぁ」そんな気持ちで、息子は、恐る恐る父親の元に帰って行ったのではないでしょうか。

 父親は待っていました。毎日毎日、父親は、「きょうは帰って来るんじゃないだろうか」と思いながら、門のところに立ち、遠くを眺めています。それが父親なのです。
 息子の姿を見ると、父親の方から駆け寄ります。そして、首を抱き、接吻し、一番よい服を着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせます。これは、雇い人としてではなく、息子として迎えたことの徴です。
 息子は、父親に抱き寄せられたとき、初めて、自分が父親のことを知らなかったことに気付くのです。父親の自分に対する思いの広さと深さに気付くのです。そして、この父親の元を出て行った自分の罪深さをこのとき初めて理解するのです。このとき、息子の中に、初めて本当の悔い改めが起こるのです。
 私たちの信仰においても同じです。信仰の理屈では、自分の罪に気付き、悔い改めて初めて神の子の十字架が救いとなります。これが信仰の理屈です。しかし、信仰の実際はこれとは違います。私たちが悔い改める前に既に十字架の出来事が、つまり、神様の赦しの出来事が、贖いの出来事が起こっているのです。その神様の赦しの出来事が、私たちに悔い改めを起こすのです。赦されていると分かったとき、私たちは自分の罪を認め、悔い改めることができるのです。

 父親にひしと抱かれながら、この息子の心に自ずと湧いてきたのではないでしょうか。この父親の息子であることの喜びが。そして思ったことでしょう、「よし、これから、この父親のために生きていこう」と。これが、本当の悔い改めが起こった人間の姿です。あの十字架の出来事を自分の救いのための出来事として受け入れることができた者だけが味わうことのできる人生の喜びです。
 イエス様は、ヨハネによる福音書4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言っておられます。これは、イエス・キリストの十字架の出来事を自分の救いのための出来事として受け入れた者に、生きる意欲が滾々とわき出て来ることを言っています。
 あの息子が、父親に抱かれながら、「よし、きょうからこの親爺のために生きていくぞ」と生きる意欲を持つことができたように、イエス様の救いを自分のものにしたとき、初めて人は、自分がこの世に生まれたことを喜ぶことができ、生きることに積極的になれるのです。

 さて、この「放蕩息子」のたとえに忘れてはならない一つの視点があります。それは、父親に忠実に生きている長男の視点です。長男は、父親が、身代を持ち崩した弟の方を、父親に忠実に暮らしている自分より可愛がっていると、不満をぶっつけます。この長男の言い分は、誰が聞いても尤もに思えます。
 この長男の不満に対する父親の答えはこうです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのにみつかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」この父親の答えに、長男は納得できたでしょうか。俄かには納得できないのではないでしょうか。毎日忠実に生きることより、一度は背いて、反省して帰って来る方が嬉しいとは、理屈に合わない。まるで、人生、一度は父親に逆らって家出をしなさい、と言われているようです。ほんとにそれでいいのですか。長男はそう言いたいのではないでしょうか。そして、私たちの心の中にも、この長男と同じ気持ちが生じます。何か納得行かないところが残ります。

 そもそも、このたとえは、息子が一人ではなりたたないのでしょうか。家出をする息子だけでは成り立たないのでしょうか。わざわざ父親に忠実に生きる長男を登場させられる意図は何なのでしょうか。
 それは、神様が創造の主であられることを明らかにするためです。創造の主であるとは、常に新たにことを起こされるということです。
 弟が放蕩に身を持ち崩した出来事は、神様にとってやっかいなことが起こったことではなく、そのことを出発点にして、新たなことを始められる切っ掛けとなるということです。弟が放蕩に身を持ち崩した出来事をもとに、神様は新しい喜びを創造されるのです。
 神様にとっては、どのような出来事も、意味のない不要の出来事なのではなく、全てが神様の喜びを創造する契機となるということです。そのことを明らかにするために、ここに、放蕩息子だけではなく、父親に忠実に生きるもう一人の息子を登場させておられるのです。父親は、自分の息子が放蕩に身を持ち崩した出来事さえ、自分の喜びに変えるのです。
 神様は、私たちの神様への逆らいすら、神様の喜びに変えられるのです。神様は、私たちを用いて、ご自身の喜びを創造されます。私たちの神様への逆らいさえ、ご自身の喜びに変えられるのです。

 これは、理屈に合わないことです。しかし、そこに私たちの救いがあります。もし、神様が理屈に合わせて行動されるならば、私たちは滅びるしかありません。私たちは、神様に自分では償えない罪を犯したのですから。
 神様が理屈に縛られないで自由に決断されるからこそ、私たち人間に救いがあるのです。神様は、御自身の喜びのために、私たちの逆らいを赦してくださいます。私たちの逆らいをご自身の喜びに変えてくださる神様に感謝しながら、この一週間を過ごして参りたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年3月11日 四旬節第3主日

「神様の余裕」

出エジプト 3:1-15  コリント第一 10:1-13  ルカ 13:1-9

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 イエス様は、宣教活動を開始されるとき、その第一声で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。
 「時は満ちた」とは、神様がなさるべき人間救済の業は成し終えられた、という意味です。神様のなさるべき救済の業が成し終えられたのに、神の国が遣って来たとはならず、「神の国は近づいた」としか言われていないのはなぜでしょうか。それは、神様の側では成すべきことは終わったが、人間の側に成すべきことが残っているからです。人間一人一人が、神様がなさった救いの業を、自分のための出来事として受け入れることが必要です。一人一人が受け入れて初めて、その救いの業がその人に実現します。この人間の側に成すべきことが残っているということを表すために、「近づいた」という表現になっているのです。

 この人間の側で成すべきこと、それは、神様がなさった救いの業を、自分のための出来事として受け入れることですが、そのことは、とりもなおさず、「悔い改めて福音を信じる」ことです。この悔い改めることと信じることは、悔い改めることと信じることの二つがあるということではなく、一つのことを表から言うか裏から言うかの違いと見るべきです。その一つのこととは、神様に自分を委ねるということです。この神様に自分を委ねることを信仰と言います。

 私たちの救いの決め手は、キリストの十字架の出来事です。このキリストの十字架の出来事が自分の救いの出来事になるには、悔い改めが必要です。なぜなら、十字架は、極悪人の処刑だからです。イエス・キリストの十字架は、神様の独り子が極悪人として処刑されたという出来事です。神の子が極悪人として処刑されるなどということは、あってはならないことです。そのあってはならないことがなぜ起きたのか。しかも、神様がなさった出来事して。
 神様は、なぜ、神様の独り子を極悪人として処刑するという、行ってはならないことを行われたのでしょうか。それは、私たち極悪人を、滅ぼすべき私たちを、赦すという、行ってはならないことを行うためです。この滅ぼされるべき私たち人間が、神様の独り子の滅びと引き換えに、赦されたという出来事が福音なのです。ですから、この福音を自分のものにするためには、自分が滅ぼされるべき極悪人だということに気付く必要があります。滅ぼされるべき極悪人ということは、言い換えれば、加害者ということです。そのときの被害者は神様ご自身です。

 私たち人間は、被害者意識は簡単に持ちます。その被害者意識をもって教会に行き、教会に慰めを求めます。その求めに応えてくれるのが教会だと思いがちです。しかし、教会は十字架で応えます。つまり、教会の応えは、あなたのために神様の独り子が十字架で滅びられたという応えです。この応えは、自分は滅ぼされるべき極悪人であり、滅ぼされて当然である、しかし、滅ぼされることに耐えられない、神様憐れんでくださいと叫ぶ者にとってはじめて、救いとなります。この、自分は滅ぼされるべき極悪人であり、滅ぼされて当然である、しかし、滅ぼされることに耐えられない、神様憐れんでくださいと叫ぶことが、悔い改めるということです。

 きょうの福音書の前半は、思いがけない災難に遭った人を、特別に罪深い者だと見ようとする私たちに対してのイエス様の警告です。誰かが特別に罪深いということはない、全ての人間が無限に深い罪を負っている、とイエス様は言っておられるのです。それ故に、全ての人間が、滅ぼされるべき極悪人だということに気付くべきであり、滅ぼされることに耐えられない、神様憐れんでくださいと叫ぶべきであるということを意味しています。

 しかし、人間は、被害者意識は簡単にもっても、自分が加害者であることに気付くことはなかなかできません。
 きょうの福音書後半の譬で、「実を探しに来たが見つからなかった」というのは、悔い改めた人間がいないということを意味しています。私たちは、自分は真面目に生きている、自分が神様に対して加害者であるなどとは、とんでもないことだ、こうして教会に足を運んでいることこそ、私が真面目に生きている証拠ではないか、と思いがちです。自分が神様に対して加害者であるなどとは、思ったこともないというのがおおかたの人間です。
 しかし、救いはイエス・キリストの十字架にあります。神様の独り子が極悪人として処刑された、そこに私たちの救いがあります。この救いを自分のものとするためには、自分が加害者であることに気付かなければなりません。
 私は、果たして自分が加害者であることに気付くことができるでしょうか。この私にも、あの十字架の出来事を自分の救いの出来事として受け入れるために必要な悔い改めが起きるでしょうか。

 さて、3年も実のならないいちじくの木を、この木の持ち主は切り倒そうと決意します。しかし、それを命じられた園丁は、もう一年まってくれ、来年は実がなるかもしれないからと言って、主人に待ってもらいます。このとき、この園丁は、何の見込みもなく、「来年は実がなるかもしれません」と言っているのでしょうか。そうではありません。園丁には、確固たる自信があるのです。園丁は、「ご主人様、おまかせください、来年はきっと実をならせてご覧にいれます」と自信をもって言っているのです。

 私たちは、行いによってではなく、信仰によって救われると言われると、ああそうか行いではなのかと、ホッとします。しかし、それもつかの間、すぐに、自分は信仰を持つことができるだろうかと心配になります。信仰とは神様に自分を委ねることであり、それは、あの十字架の出来事を自分の救いのための出来事として受け入れることである。それを受け入れるためには、自分が極悪人であることに気付き、悔い改めることが必要である、と言われると、自分に悔い改めが起こるだろうかと心配になります。そのような心配の目で自分を見つめるとき、返って来る答えは、ノーです。自分には到底信仰があるとは思えないし、自分にそのような悔い改めが起こるとは到底思えません。
 それは、私たちがある落とし穴に陥っているからです。それは、信仰をもつことを自分の業と思い込んでいるということです。悔い改めることを自分の業と思い込んでいるということです。
 あの園丁は、私に任せてください、と言っているのです。私が手入れをします、と言っているのです。この園丁の自信、この園丁の余裕に希望があります。つまり、私たちが信仰を持つのも、私たちに必要な悔い改めが起こるのも、神様の働きによるのです。神様が信仰を与え、神様が悔い改めを起こしてくださるのです。

 私たちは、自分では、被害者意識しかもつことはできません。その被害者意識をもって、教会に慰めを求めて遣って来ます。これではいけないのでしょうか。そうではありません。私たち人間にはそれ以外に道はないのです。私たちは、自分が神様の愛の相手として造られたなどと思っても見ませんから、自分が神様の愛に応えて生きていないということに気付くはずもありません。その神様の愛に応えていないことが、神様に対する加害行為だと気付く訳がありません。それが、人間の実態です。罪に堕ちた我々人間の実態です。そのような私たちですから、神様に対して加害者であるなど、気付くはずがありません。
 被害者意識で教会を訪れていいのです。いや、それしか方法はないのです。あとは、神様に任せればいいのです。被害者意識で慰めを求めて教会に遣って来た私たちに、神様が救いに必要な悔い改めを起こしてくださいます。

 園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。実のならないいちじくの木に、まだやるべきことがあるといっているのです。それを自分がすると言っているのです。園丁には、実のならない原因が分かっているのです。どうすれば実がなるか分かっているのです。
 神様は、私たちがどうすれば悔い改めるか分かっておられます。そして、ちゃんと手を打ってくださいます。私たちに信仰がないこと、それを問題にする必要はありません。なぜなら、信仰を与え、その信仰を育ててくださるのは神様だからです。私たちに必要な悔い改めを起こし、信仰を与えてくださる神様にまかせればいいのです。神様は、信仰のない私たちであることを百も承知で、余裕をもって見守ってくださっています。神様の温かい眼差しに感謝しながら、この一週間を過ごして参りたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年2月25日 四旬節第1主日

「誘惑を受けるキリスト」

申命記 26:5-11  ローマ 10:8b-13  ルカ 4:1-13

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 先週の水曜日は灰の水曜日でした。教会の暦は、この日から四旬節に入りました。この季節は、復活祭の準備の季節です。復活祭の準備のために、私たちは何をすべきでしょうか。それは、復活の前提となっているキリストの死の意味を噛みしめることです。神の独り子が何ゆえに、十字架の死を負わねばならないのか、そのことを自分に関わることとして捉えること、それが復活祭の準備として最もふさわしいことです。

 復活祭に向けて準備をする季節の最初の日曜日であるきょう、与えられた福音書の日課は、イエス様が悪魔の誘惑を受けられる場面です。ここに悪魔が登場しますが、「悪魔なんて馬鹿馬鹿しい話しは止めてくれ」と思われる方もおられるかも知れません。たしかに、私たち現代人には悪魔という表現はなじみません。私たちには、悪魔は物語の中にしか登場しないもの、実在しないものとしか思えません。しかし、聖書が悪魔と呼んでいるものは、実在するのです。それは、人間が人間であるために、無くてはならない存在なのです。
 私たち人間は、神様によって神様の愛の相手として造られました。愛は、自由な者同士の間にしか成り立ちません。神様と私たち人間の間に愛が成り立つためには、私たち人間が神様に対して自由な存在でなければなりません。私たち人間が神様に対して自由ではなく、ただ神様の言いなりに動くだけの存在であれば、それは神様のロボットに過ぎず、そこには愛はなりたちません。私たちが神様に対して自由な存在であるとは、私たちが神様の言いなりにしかならない存在なのではなく、自分で決断して行動する存在でなければならないということです。そのためには、人間は、神様の命令に従う能力と共に、神様の命令に逆らう能力も持たねばなりません。
 神様は、人間をご自身の愛の相手としてお造りになられたとき、人間がご自身の愛の相手であり得るために、人間に神様に従う能力と共に、神様に逆らう能力もお与えになったのです。能力が発揮されるためには、刺激が必要です。色々な能力を備えたパソコンという機械があっても、それがある能力を発揮するにはそのためのソフトが必要なように、人間の能力を発揮させるためには、そのための刺激が必要です。神様に従う能力を発揮させるための刺激は、神様ご自身の語り掛けです。それに対して、人間の神様に逆らう能力を発揮させるための刺激を与える存在として、神様によって造られたのが悪魔なのです。ですから、悪魔の唯一の働きは、人間を神様に逆らわせることなのです。
 人間を神様に逆らわせる人格的存在を聖書は悪魔と呼んでいるのです。このような悪魔がいなければ、人間は、神様に逆らう能力はもっていても、何もその能力を刺激するものはいませんから、神様に逆らう能力をもたないのと同じになってしまいます。そうすると、人間は、神様に機械的に従うだけのロボットになってしまいます。神様は、ロボット相手ではつまらないのです。ロボットではなく、つまり、神様の言いなりに行動するのではなく、自分の意思で決断して行動する相手が欲しいのです。ロボットではなく、人間を相手にしたいのです。人間が人間であるあるためには、神様に逆らう能力が有効に発揮されなければなりません。ですから、人間が人間であるために、つまり、人間が神様の愛の相手であるために、人間の神様に逆らう能力を刺激する悪魔が必要なのです。悪魔がいなければ、人間が人間でなくロボットになってしまうのです。

 余談ですが、今、盛んに人間に近いロボット開発競争が行われています。アイボという名のロボットから始まって、今、だいぶ進化したロボットが開発されているようです。目指されているロボットは、人間の言いなりに動くロボットではなく、自分の意思で行動するロボットです。
 こんなロボットができたら面白いのではないでしょうか。たとえば、ロボットに「部屋の掃除をしなさい」と命じると、ときには、「ご主人様、私は、きょうは疲れていますから、勘弁してください。掃除ぐらい、ときにはご自分でなさったらいかがですか。健康のためにも体を動かした方がいいですよ」と返事をするようなロボットです。
 こんなロボットは、できないことはないと思います。そういうプログラムを組み込んでおけばよい訳ですから。「掃除をしなさい」とう命令に対して、何回目かには、今のような返事をする仕掛けをしておけばよい訳です。これがロボットの限界です。どのような返事にしろ、予め人間の方で仕掛けをしておかなければなりません。結局は、ロボットは、人間の仕掛けの通りにしか動かないのです。
 神様は、ロボットではなく、人間をお造りになったのです。神様の思い通りに動くのではなく、神様にもどのように動くか分からない相手を造りたかったのです。そのために、人間に神様に逆らう能力を与え、その能力を刺激する存在として悪魔を造られたのです。

 その悪魔からイエス様は誘惑を受けられます。まず、悪魔は、イエス様が40日間断食をされ空腹でいらっしゃることに目を付けます。食欲は、動物の基本的な本能です。その基本的な本能、生存を維持するのに欠かすことのできない本能を、悪魔は刺激してきます。悪魔は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と囁きます。これは、悪魔が、イエス様に、「自分は神の子だ。何でもできる。空腹を我慢する必要はないのだ。この石をパンに変えればいいんだから」という思いを持たせたということでしょう。確かに、石をパンに変えて空腹を満たしてもそれ自体が悪いことではありません。ここが悪魔の巧妙なところです。問題は、悪魔のいうようにするその行動の良し悪しなのではなく、悪魔に従うことそれ自体なのです。悪魔に従わないことが大事なのです。この悪魔の誘惑を、イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記8章3節の言葉を用いて、退けておられます。イエス様は、悪魔の誘惑を神様のみ言葉によって避けられたのです。

 次に、悪魔は、「この国国の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものとなる」と言って誘います。これは、この世の救い主として神様のもとから遣って来られたイエス様の「一日も早くこの世に救いをもたらせたい」という思いに付込んだ誘惑だといえます。このイエス様の思いはもっともな思いです。それが実現しても何の不都合もありません。問題は、悪魔を拝むことが条件になっていることです。この誘惑を、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記8章13節の言葉を用いて、退けておられます。ここでも、イエス様はみ言葉を武器に闘っておられます。

 次に、悪魔は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」そう言って誘ってきます。これは、イエス様の中に、「神様は本当に自分と共にいてくださるだろうか」という不安を起こさせ、「その不安をなくしたい」という思いを起こさせたということでしょう。イエス様は、その思いを「あなたの神である主を試してはならない」という申命記6章16節のみ言葉をもって払拭しておられます。

 イエス様は、悪魔の誘惑と戦い勝利されました。イエス様といえども、ご自分の力によって戦われたのではなく、神様のみ言葉を武器にしての闘いでした。ここに、私たち罪に堕ちた人間と神の子イエス・キリストとの違いがあります。私たち罪に堕ちた人間の問題は、自分の力に頼り、神様に自分を委ねないことなのです。
 人間は、神様につくか悪魔につくか、そのどちらかです。神様にもつかず、悪魔にもつかないという中立のあり方は、あり得ません。しかし、一度、悪魔の言いなりになったが最後、私たちは自分の力では悪魔の力を振り払うことはできません。そこが悪魔の恐ろしさです。
 しかし、きょうの福音書は私たちに希望を与えてくれます。イエス様が、神様のみ言葉の力によって悪魔の誘惑を退けられたように、私たちも神様に委ねることによって、悪魔の力から抜け出ることができるということです。私たちが自分の力で悪魔の力から抜け出るというのではなく、神様が私たちを抜け出させてくださるということです。

 悪魔は、私たちを神様に逆らうように誘います。その悪魔に、私たちは身を売ってしまいました。そして、自力では悪魔から逃れることはできず、苦しみもがいています。「なぜ神様は悪魔なんか造られたのだ」と神様を呪いたくなります。しかし、悪魔がいないと人間はロボットになってしまいます。ロボットでは、神様の愛の相手ではあり得ません。神様は、決して悪魔を滅ぼしたりはなさいません。それは、人間をロボットにしてしまうことになるからです。かといって、悪魔に苦しめられている人間を放置しておかれるお方でもありません。神様ご自身が、悪魔と闘い、悪魔の手から、私たちを取り戻してくださいます。悪魔の言いなりになった私たちを、その悪魔の手から自分では抜け出せない私たち人間を、神様が悪魔の手から抜け出させてくださいました。
 私たちは再び自由を与えられました。しかし、その私たちは、またもや、悪魔の誘惑に負けてしまい、悪魔の虜になって苦しむ者になってしまいました。そのような私たちを、またもや、神様は悪魔の手から取り戻してくださいます。このことの繰り返しが、私たちのこの地上での歩みではないでしょうか。罪を赦されてはまた罪を犯す。神様への逆らいを神様によって赦されては、また神様に逆らう。神様にとっては、赦しては逆らわれ、赦しては逆らわれの繰り返しです。神様は、7の70倍赦しなさいといわれます。これは、とことん赦しなさいということです。それは、神様ご自身が私たち人間をとことん赦されるお方であられるからです。この神様の忍耐強さの中に、私たちの救いの根拠があります。

 悪魔は、きょうも私たちに襲い掛かります。でも恐れることはありません。悪魔に勝ち得ない私たちであることを神様はご存知です。神様が私たちに代わって悪魔と闘ってくださいます。安心して、この一週間を過ごしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年2月18日 変容主日

「聖書、男のロマン」

ルカ福音書9章28〜36節

関野和寛

 先週、わたしと山之内先生の間に争いが起きました。バレンタインチョコレート戦争です。勝手にわたしが争ったのですが山之内先生とわたしとでどちらが多くチョコレートがもらえるのか気になって気になって仕方が無かったのです。
 わたしも先週チョコレートをもらいました。礼拝が終わり、地区の会議に出かけ戻って来てみるとわたしの部屋のドアノブに紙袋がかけられていました。もしやと思って中を見てみるとチョコレートが沢山入っていたのです。しかも手紙つきのものがほとんどです。中には「昔の乙女より」などと書かれている物もありました。
 「山之内先生より多く貰いたい!」と意気込んでいましたから、ある方がチョコを下さった時に思わず「ありがとうございます!!でもこれってわたしにだけですか?」と聞いてしまいました。そう聞くと、その方は「あたり前じゃない!」と答えてくださいました。本当に嬉しかったです。牧師になってよかったと思った瞬間でした。男にはこのようなロマンがあります。何か夢を持ったり、大きな愛を抱いたり、男にはロマンがあります。

 さてさて、今日の福音書にも大きな事を成し遂げたロマン溢れる3人の男たちが登場します。聖書の中で一番有名な3人といえるでしょう。イスラエルの民をエジプトから救ったモーセ、エジプトから逃げる途中軌跡によって海を割ってその間を通って脱出したモーセ、また神から十戒を授かった事でもこの上なく有名な人物です。
 また聖書の中で最も偉大とされている預言者エリヤ、カルメルの山頂で数百人の預言者を相手に独りで立ち向かい勝利したエリヤです。そして主イエス・キリストです。モーセもエリヤも遠くの昔に死んでいるのに、弟子たちは彼らの幻をみたのです。そればかりが自分たちの先生であるイエスさまが彼らと話をしているのを見たのです。

 この奇跡の出来事を見たのはペテロ、ヨハネ、ヤコブでした。彼らはイエスさまの側近であり、ある意味主に選ばれた人々です。そして行き先は山の上でした。聖書で山の上とは神が現れる場所、また聖なる場所でもあります。彼らは自分たちだけイエスさまに呼ばれたこと、また全てを見下ろせる山に登り気持ちは高ぶっていたと思います。「自分たちは残りの弟子たちより優れている」そんなことを考え山を上っていたのではないでしょうか。現にこのあとの箇所9章46節から弟子たちは誰が一番偉いかという議論をはじめています。

 人の気持ちは激しく揺り動かされます。わたしも先週が特にそうでした。バレンタインデーで嬉しい気持ちになったと思いきや、急なトラブルや相談、また個人的な試練がやってきたり、人に怒鳴られたりもしました。はたまた昨日は結婚式という嬉しい瞬間に立ち会うこともありました。自信を持ったり喜んだり笑ったり、逆に苦しんだり悲しんだり、悩んだり、色々な気持ちを抱えながらこの日曜日を迎えます。
 皆さんも礼拝に出ている今、「自分は満たされているのかどうか分からない、気持ちのどこかにいつもどこか晴れない・・・」そのような気持ちを持っているかもしれません。神さまの救いとか平安と言っても、それが本当にこの胸に押し寄せてくる感じがしない。何か救われきっていない、満たされきっていない、自分の信仰がもやもやしている。そう感じることはないでしょうか。
 弟子たちはそうでした、神さまを信じられたり信じられなかったり、自分を誇ったり、叱られたりその繰り返しでした。けれども弟子たちはそんなある日山の上で、奇跡を見るのです。

 イエスさまの顔が白く輝きだし、モーセとエリヤが現れ語らっているのを見るのです。目の前に奇跡の人々がいる、一生に一度見られるか見られないかという奇跡の体験をしてしまうのです。けれどもこのうえない奇跡が目の前にあるのに、弟子たちはそれがわからないのです。なんと弟子たちは「強い眠気で起きているのがやっとだった」というのです。口語訳聖書だと「熟睡していた」と書かれています。ここぞという時にまどろみに中に陥っていくのです。

 そしてモーセとエリヤが立ち去ろうという時にやっと目を覚まし声を上げます「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです、イエスさまとモーセとエリヤ3人のために小屋を造りましょう」と。弟子たちは何を考えこう言ったのでしょうか、過去の偉大な預言者ふたりをそこに住まわせ留めようとしたのでしょうか。弟子たちも自分自身が言っていることが分からなかったと書いてあります。
 寝ぼけるがごとく、今更目を覚まして人間的に血迷ったことを言ってしまったのです。そして、そんなことを言っている間に山頂に雲がたちこめます。目の前が見えなくなり、そして弟子たちは怯えだすのです。

 目の前にイエスさまがいるのに、そして国民を導いたふたりの預言者もいるのに、眠りに陥り、とんちんかんなことを口走り、そして目の前が見えなくなり恐れだすのです。ここのどこに信仰があるのでしょうか?

 筆頭弟子のぺテロはこの時、「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです」と言いました。何がすばらしいのでしょうか?寝ていた自分たちがすばらしいのか、それとも偉大な預言者が舞い戻ってきたからすばらしいのか。
 人には本当のすばらしさが分かりません。わたしたちにはイエスさまのすばらしさが分かりません。わたしはこの箇所を読むと、どうしても弟子たちがイエスさまではなくて過去の偉大な預言者ふたりしか見ていなかったような気がします。なぜかというと、最初イエスさまがひとりで必死に祈っている時に弟子たちは熟睡していたからです。

 弟子たちは言いました「いまわたしたちがここに居るのはすばらしいことです」、けれども彼らは本当にイエスさまのすばらしさを見ていたでしょうか。海を割ったモーセ、そしてひとりで何百人もの偽預言者を倒したエリヤは人々にとって、弟子たちにとってこのうえなくすばらしい存在だったでしょう。人の目には、過去のもの、理想のもの、手が届かないものこそすばらしく映ります。けれどもそれはすばらしく見えるだけです。

 わたしには忘れられないすばらしい1杯のコーヒーの想い出があります。コーヒーなら毎日飲んでいますが、忘れられない1杯があります。それは昔ある方をお見舞いに行った時に飲んだ1杯のコーヒーです。その方はづっと入院生活をされていましたが、わたしに微笑みかけコーヒーを入れてくださったのです。ですがその方は生きるのが精一杯のかたでしたから、洗い物などができませんでした。なので、洗っていないようなカップに洗面所の水を入れてそして粉コーヒーを入れてといてくださり、そして蜂蜜を入れてわたしに出してくださったのです。「飲めない・・・」正直そう思ってしまいました。偏見のこころがありました「カップは綺麗なのか、水は大丈夫なのか・・・ 飲みたくない・・・」けれどもその方は笑顔でわたしに勧めます「おいしいですから どうぞ・・・」と。わたしはぐいっと飲み干しました。おいしかったのか、そうでなかったのかは覚えていません。味のことは忘れてしまいました。けれどもその方のことは絶対に忘れません。御自分は病気なのに、わたしを気遣ってくださって入れてくれた一杯のコーヒーを忘れることも決してありません。きっとこれ以上のコーヒーをこの先飲むことはありません。そして本当のすばらしさとはこの方が要れてくださった一杯の気持ちをいうのではないでしょうか。

 そしてそれがイエスさまは誰よりもすばらしい方でした。生まれながらに宿するところを持たず、迫害されていたイエスさまにはモーセやエリヤのような派手さがありませんでした。本当のイエスさまのすばらしさとはわたしたちが考えているようなすばらしさとはかけ離れています。
 本当のイエスさまは聖画のように、ブロンドの髪、青い瞳の美男子ではありません。ユダヤ人ですから髪だって目だって黒かったはずです、砂漠の太陽に焼かれ肌だって真っ黒だったでしょう。イエスさまは家を持たずいつも貧しい人と共に過ごしていました。このイエスさまの顔の様子が変わり、衣が白く光りだしたというのです。このイエスさまの輝きとはあの十字架の輝きです。いのちを捧げるものの輝きです。

 イエスさまは祈りの中で、いよいよ十字架へかかることを決心されたのです。そのこころの中には、沢山の人の顔が映ったでしょう。これまで出会ってきた苦しむ人々、罪から抜け出せない人々の顔。そして「この人たちのために生きていこう、いや人々のために命を捧げよう」その決意が主の顔を変え衣を光らせたのです。どうして今から殺される人の顔が変わり、衣が光りだすのでしょうか。それはそこに恐怖を超えた愛があったからです。
 「自分のいのちよりも、自分の痛みよりも、隣人が大事」このイエスさまのお心が輝きだしたのです。それが主のすばらしさです、これがキリストのすばらしさです。

 わたしたちはともするとこのすばらしさを見失ってしまいます。高ぶる気持ち、理想を求める気持ちが雲のように立ち込め、一番低き所に居る神さまの姿が見えなくなってしまいます。けれどもその立ち込める雲の中でわたしたちに声をかけてくださいます。そして目の前の雲が過ぎ去った時にそこにはイエスさまだけがおられたのです。
 わたしたちの一週間の歩みの只中に、そして悩みや苦しみのその先にただただイエスさまが立っていてくださいます。この主を見つめて生きましょう。この主の愛を隣人に伝えて生きましょう。主のすばらしさが、皆さんを支えるのです。

 

 

2007年2月11日 顕現節第6主日

「罪人を救うために」

創世記 45:3-15  コリント第一 14:12-20  ルカ 6:27-36

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 キリスト教は愛の宗教であると言われます。しかし、よく考えてみますと、愛の宗教ではない宗教があるのでしょうか。例えば仏教はどうでしょうか。確かに、仏教では、愛は遠ざけるものとされています。それは、愛着という言葉があるように、仏教では愛は自分の思いの延長と捉えられているからです。その仏教には、慈悲という言葉があります。この慈悲という言葉は、自己を犠牲にして相手を生かすという意味がありますから、キリスト教のいう愛と置き変えてもよいように思われます。そうすると、仏教もやはり愛の宗教だと言えるように思います。そのように見てきますと、宗教というものは、すべからく愛の宗教であると言えるように思えます。
 しかし、きょうの福音書のみ言葉の中に、キリスト教を敢えて愛の宗教と呼ぶ理由があります。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」というこの言葉です。「敵を愛しなさい」というこの言葉が、キリスト教を愛の宗教と呼ばせているのです。一般に愛は、自分を犠牲にして他者に尽くすことです。そのとき、その他者が問題なのです。その他者と自分の関係が問題なのです。キリスト教が愛の宗教と言われる所以は、その愛が自分の敵に向けて行われるのもだからです。敵のために自分を犠牲にして尽くす愛は、キリスト教独自の愛です。ここに、キリスト教が敢えて愛の宗教であると言われる所以があります。

 その敵をも愛する愛が最も端的に表れているのが、神の独り子イエス・キリストの十字架です。イエス・キリストの十字架は神様の愛と怒りの衝突であるといわれます。愛の神がなぜに怒りの神でもあられるのでしょうか。
 旧約聖書の出エジプト記20章5節に「わたしは熱情の神である」という言葉があります。「熱情の神」とは、旧約聖書の原語であるヘブル語では、「エル カンナ」となっています。このヘブル語の「カンナ」という言葉は「ねたむ」(口語訳聖書、新改訳聖書)とも訳されています。聖書の神は、ねたむ神、即ち、嫉妬される神なのです。嫉妬が怒りとなって現れたのだと言えば、何だか分かったような気もしますが、嫉妬される神というのは余りに人間臭い気が致します。この「カンナ」という言葉にはどのような意味が込められているのでしょうか。

 神様は、ご自身が神であることを楽しむために人間を造られました。人間を造ることによって、ご自身の神としての喜びを味わわれたのです。この神としての喜びは、愛の交わりをもつことによって実現しました。即ち、神様はご自身の愛の相手として人間を造られたのです。
 愛は、相手に愛を求めます。愛することは、その中に、愛が返って来ることへの期待が含まれています。神様は人間を愛されます。そのとき、同時に、神様は、人間が神様を愛することを期待しておられるのです。愛が返って来ることを期待しない愛は、本物の愛ではありません。
 ここで確認しておかなければならないことは、愛には愛が機械的に返って行くというものではないということです。愛されても愛を返すかどうかは、愛された者の自由な決断によるということです。この自由がないところでは、愛は成り立ちません。

 ここで問題が生じます。愛された者は機械的に愛を返す訳ではありません。愛を返すか返さないかは、愛された者の自由です。愛を返さないことだって起こります。そこで問題なのは、愛された者が愛を返さなかったとき、その愛の行方はどうなるかということです。
 神様の愛は無償の愛ではありません。神様の愛は愛を求めます。ここで登場するのが、あの「カンナ」です。神様から人間へ向けられた愛は、その愛を受けた人間が神様に愛を返さなかったとき、「カンナ」となって人間を襲います。それは、愛を返さない相手に向って燃える愛の炎であり、相手が到底そのまま存在し続けることができない程の熱情であります。ここに、人が救われる根拠があります。人が救われるとは、人が、神様の愛に愛をもって応えられる者に、神様の愛によって、生まれ変わらせられることです。神様の「カンナ」熱情が人を救うのです。

 きょうの福音書の28節から30節の「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」というみ言葉は、具体的な敵の愛し方について述べられたものですが、私達には到底できそうにないことばかりです。
 ここには、私たちが日ごろ心に思っていることの反対が命じられています。私たちは、悪口を言う者や侮辱する者のために呪いを祈り、頬を打つ者の頬を打ち返し、上着を奪い取る者からは相手の上着をも奪い返すのが普通です。

 仏教で四苦八苦といいますが、その八苦の一つに怨憎会苦というのがあります。怨は怨念の怨です。怨むということです。憎は憎悪の憎です。憎むことです。会苦とは、苦しみに会うということです。怨憎会苦とは、怨み憎む人に出会う苦しみという意味です。つまり、仏教では、怨み憎む人に出会う苦しみは、人間にとって避けられないことだとみているのです。これが、罪に堕ちた私たち人間の普通の姿です。
 そのような私たちに、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」というこの命令は、初めから出来ないことを承知で、無理難題を吹きかけられているとしか思えません。私たちは、ここで、イエス様それは無理です。勘弁してください、と座り込むより他ないのでしょうか。

 このイエス様のみ言葉は、私たちへの命令であると同時に、神様が私たちに向ってなされる神様ご自身の行為でもあるのです。このみ言葉は、次のように読み変えることができるみ言葉です。「私は私に悪口を言うあなたがたに祝福を祈り、私を侮辱するあなたがたのために祈ります。わたしの頬を打つあなたがたには、もう一方の頬をも向けます。私から上着を奪い取るあなたがたには、下着をも拒みません。求めるあなたがたには、だれにでも与えます。わたしの持ち物を奪うあなたがたから取り返そうとはしません。」神様ご自身が私たち人間に向って、そう宣言しておられるのです。

 「汝の敵を愛せよ」これがキリスト教を愛の宗教たらしめる言葉ですが、何より先ず、神様ご自身が、神様の敵である私たち人間を愛してくださったのです。「汝の敵を愛せよ」これは、神様からの私たち人間への命令です。私たち、人を怨み憎むことから逃れられない人間にとって、この命令は実行不可能にしか思えません。神様は実行不可能だと承知の上で、この命令を私たちに与えておられるのでしょうか。そうではありません。この命令が私たちに実行不可能としか思えないのは、私たちが大事なことを忘れているからです。その大事なこととは、私たち自身が既に敵を愛する愛を受けているという事実です。

 私たち人間は、神様によって、神様の愛の相手として造られました。しかし、私たちは、神様を無視して生きる者に自分自身を変えてしまいました。私たちは、神様の愛に愛をもって応えることをせず、神様に怒りを引き起こしてしまいました。その怒りの対象となってしまった私たち人間を、神様はなおも激しく愛されます。その神様の愛の力が、私たちを変えるのです。「汝の敵を愛せよ」というこの命令は、「私は、私の敵である汝を愛する」という神様の宣言でもあるのです。

 敵をも愛する神様の愛は、その独り子を十字架で滅ぼすという仕方で、私たち人間に向けられました。神様の熱情が、神様に背き罪人となった私たち人間を、即ち、敵をも愛する愛を失った私たちを、造りかえるのです。神様のあの熱情に私たちの救いがあります。神様が熱情の神ではなく、淡白な神であられたならば、私たちには救いはなかったでしょう。私たちが神様の愛にそっぽを向いても、何の感情ももたれず、何の関心ももたれない神様であられたならば、最早、私たちは永遠の滅びから免れることはできなかったのです。神様が熱情の神、嫉妬される神であられたから、私たちは、神様から見捨てられなかったのです。

 「汝の敵を愛せよ」これは、私たち人間がそのままで実行できることではありません。私たちは、自分の内をどう見つめてみても、自分に、敵を愛することができるとは思えません。それどころか、自分を見つめれば見つめるほど、敵を愛する愛から程遠い自分が見えて来るばかりです。
 私たちは、自分を見つめることから、神様を見つめることへと、目を向き変えたいと思います。先ず、神様ご自身が、神様の敵である私たち人間を愛してくださっているのです。底なし沼の罪人であるこの私たちを、滅ぼすべきこの私たちを、神様はなおも愛しておられます。その神様の愛が、私たちを変えるのです。ここに、私たちの希望があります。この愛に感謝し、希望の内に、この一週間を歩んで参りたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年2月4日 顕現節第5主日

「牧師の一分」

ルカ福音書6章17〜26節

関野和寛

 先日、山田洋治監督木村拓哉主演の侍映画、「武士の一分」を見てきました。木村拓哉が演じる侍、新之助はお上の毒見役でした。ある時、いつものようにお上に出す料理を毒見していた所、赤粒貝の毒にあたり視力を失ってしまいます。新之助は視力を奪われるだけでなく、藩主に妻まで奪われてしまうのです。
 愛する妻のために新之助は、見えなくとも気配だけで相手と戦うことを決めるのです。新之助はそこで師匠からもらったことばを思い出します。「共に死するをもって心となす その中に勝利あり 必死すなわち生きるなり」必ず死ぬと書いて必死、そしてそれが生きることだと、それが新之助の武士の一分でした。

 わたしはそのセリフをその場で覚えてしまいました。覚えるだけでは物足りず、武士ではないが「牧師の一分」は何かと考え出しました。そして今朝の聖書のみことばにこそ「牧師の一分」があると思ったのです。「貧しき中にあろうとも、神の愛あらば我幸いなり」これこそ牧師の一分、いやキリスト者の一分と言えるでしょう。一分とは絶対的な使信、自分の命を現すことばです。

 主が語ったことば「貧しさ、飢え、泣くこと、憎まれること、ののしられること、汚名を着せられること」、全て人生の辛さを現すことばです。どれも自分の身には降りかかって欲しくはないことばです。イエスさまはこのことばをおびただしいほどの民衆、そして病で苦しむ人々、そして弟子たちに向けて語られました。
 本当に貧しさは幸いか、本当に憎まれることは幸いなのか、病気で涙することは幸いなのでしょうか。この苦しみは本当に報われるのか、貧しさから脱することができるのであるのでしょうか。わたしは自分の経験からも、また時に皆さんからいただく手紙の中で病や貧しさ、それは一生背負っていかなくてはいけないものであることを知っています。
 人は様々なものを問題や病気と付き合って、時には自分をだましだましながら今日も生きていかなくてはなりません。
皆さんもこの1週間、1ヶ月様々なことがあったでしょう。教会でもこの一ヶ月の間にふたつの御葬儀があり、また総会もありました。
 本当に色々なことが起ります。けれども皆さん、今わたしたちは自分が抱える悩みや苦しみをしばし自分の中で思い起こしながらイエスさまのことばに耳を傾けていきましょう。

 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」

 美しいことばです、慰めに満ちたことばです。キリスト教のお店に行くならば、このみことばが書かれたカードや壁掛けが沢山あります。なんど読んでも美しい響きとリズムがあります。けれども本当にこのことばはわたしたちを救いえるのでしょうか。美しいだけでは人を救うことはできません。
 このイエスさまのことばは、みなさんのこころの一番奥底にまで届いているでしょうか。このことばは皆さんの困難な状況を救うことができるでしょうか。キリスト教を嫌う人やまだ聖書に親しんでいない方々は、このようなことばに含まれる何か偽善的な部分、また浮世離れした雰囲気に抵抗を持たれるのではないでしょうか。「だったらこの病を治してみろ、神さまを信じたら借金が返せるのか」そう率直におもうでしょう。

 けれどもこのイエスさまのことばにはいのちがみなぎっています。このイエスさまのことばにはわたしたちを救おうとする愛が満ち満ちています。それはこのことばを語ったイエスさまのまなざしにあります。主は低き所に立ち弟子たちを見上げました。この見上げるということばは、イエスさまが大事な祈りや祝福をするときに天を仰ぎ見るという時に遣われることばです。

 神の子であるイエスさまがその顔を上げて、弟子たちを見上げた時その目には何が映ったのでしょうか。漁師だった弟子たちのごつごつであかぎれした手が見えたかも知れない、麦畑の麦を揉んで食べていた弟子たちですから、空腹で疲れた顔をしていた者もいたでしょう。破れた服でまた擦り切れた履物で主について来たものもいたでしょう。

 主の目にはそのような弟子たちの出で立ちだけではなく、佇まいから滲み出る今まで歩んできた道の苦しさの表情さえ見たでしょう。弟子の中には軽蔑されるような仕事をしていたものもいました。

 そして弟子たちの背後には罪人や病気の人が大勢主に救いを求め立っていました。そこには思い皮膚病で体中が爛れていた者もいました。悪霊に取り付かれて発作を起こし泡を吹きながらのたうちまわっていた人もいたでしょう。

 イエスさまはこのような人々、そして弟子たちを真直ぐに仰ぎ見るのです。イエスさまが見上げたその光景を皆で思い浮べて欲しいと思うのです。イエスさまの見上げる先には大切な家族、仕事、持ち物までも全て置いてきた弟子たち、そしてその後ろには大勢の苦しむ人々が大勢見えました。主は弟子たちがこれから茨の道を歩まなくては行けないことを、そしてそこにいる全ての人苦しみの全てを御覧になりました。 そして見上げた視線のはるか先にはあの十字架がしっかり見えていました。「この愛する弟子たちのために、また苦しむこの人々の痛みを自分が引き受けるのだ。この人々の痛みを、そして罪をわたしが十字架で引き受け、彼らに天国の門を開くのだ」、主のこころには愛が満ち満ちていたのです。

 聖書が語る、「貧しさ、飢え、涙、憎まれ、罵られ、汚名」この中でイエスさまが経験しなかったものがあるでしょうか。イエスさまは生涯でこれらの苦しみの全てを経験し、そしてあの十字架で苦しみ抜かれたのです。そして復活により、神の愛がこの世のどんな苦しみさえも打ち砕くことを証明したのです。だからこそイエスさまのことばにはいのちがあるのです。
 まさにコリント書の中でパウロが証している通りです「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る、その中で最も大いなるものは愛である」

 今日、この礼拝に集うわたしたちに主はあの十字架のから愛の眼差しを向けてくださいます。このお方がわたしたちに目を留めてくださり、幸いあれと言ってくださるのです。弟子たちのこれまでとこれから、そして全てを見てくださる主が、わたしたちにも目を留めてくださるのです。この主の十字架からの眼差し、わたしたちを見守る愛の眼差しが、ひとを救うのです。

 時に貧しさや、悩み、病は人のこころを蝕んでいきます。経済的にゆとりがなくなると気持ちまで沈んできます。病気はひとのこころを萎ませてしまいます。けれどもわたしたちはそこに捕われてはなりません。無いものを悔やみ今の状況を悲しんではいけません。
 確かに人の基準からするならば、貧乏よりもお金持ちの方がいいに決まっているでしょうし、何事も健康あってのものです。それは確かですし否定はできませんし、わたしだってそうありたいと本音では思っています。けれどもゆとりもまた人のこころを蝕みます、貯め過ぎたお金は腐りだしますし、傷みを知らない気持ちは優しさを失っていきます。

 何より満たされすぎていると逆にそれを守ることにこころを奪われていき、大切なことが見えなくなって行き、神さまに信頼するというこころを失って行きます。そうではあってはなりません。
 健康や財産だって一晩のうちに全て失うことだってあります。預言者エレミヤが言ったように、いつ奪われるか分からない人間の価値に基準を置いてはなりません。
 わたしたちの貧しさ、悲しみを見上げ、それをあの十字架で引き受けて下さった主の愛にこそ基準を置かなくてはなりません。これこそが、何があっても揺らがない基盤であり、キリスト者の一分です。あの十字架の愛だけが、わたしたちに幸いを与えてくださいます。主が低き場所に立ち、弟子たちを見上げたように、主はわたしたちの今日からの歩みを見上げて、その先に幸いをもう既に用意して下さっています。例えどんな試練があろうとも、主はそれを必ず打ち砕いてくださいます。それが主の愛です。貧しきものに、また悲しむものに注がれる主の愛です。この主の愛の眼差しはこの新しい1週間皆さんから離れることはありません。神の国はわたしたちのものです。幸せはわたしたちのものです。喜び踊り歩みだしましょう。

 

 

2007年1月28日 顕現節第4主日

「神様には見えている」

エレミヤ 1:9-12  コリント第一 12:12-26  ルカ 5:1-11

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 きょう、私たちは、1年に1回の定期総会を行います。私たちの、教会としての1年の歩みを振り返り、新しい1年に向って、新しい気持ちで歩み出すためです。

 今日、教会は、非常に厳しい状況にあります。日本だけでなく、世界的に教会が力を失っているかのようです。
 「これからドイツの教会も伝道をしなければならなくなりました。」
 これは、昨年の7月に訪問した、ドイツのブランシュバイク領邦教会のヴェーバー監督の言葉です。ドイツでも人々の教会離れが急速に進んでいるのだそうです。特に、東西ドイツの統一以来、当然のように教会離れに拍車がかかっているそうです。
 「これから伝道をしなければならない」
 キリスト教の先進国であるドイツの教会からそのような言葉を聞くと、伝道することは教会にとって当たり前のことだと思っている私たち日本の教会としては、思わず、「やっと先進国に追いついたな」と、錯覚を起こしてしまいそうな気持ちになります。私たちキリスト教後発の国が先進国に追い着いたのではなく、先進国が後退しているのです。それ程、教会を取り巻く環境は厳しいということです。

 「キリストの誕生の地を、単なるテーマパークにしてはならない」
 これは、昨年11月に訪れたパレスチナのベツレヘムにあるクリスマス・ルーテル教会のラヘブ牧師の言葉です。今、パレスチナのベツレヘムは、イスラエルによって一方的に壁が造られ、分断されています。ベツレヘムの子どもたちは、家から学校に行くのに壁を通って行かなければならなくなり、イスラエルの兵士が壁の門を開いてくれるまで、3時間も待たなければならない時があるそうです。そのような中で、パレスチナの人口の2%を占めていたクリスチャンが減り始めたのだそうです。
 「このままでは、ベツレヘムにクリスチャンはいなくなり、ここのクリスチャンは、キリストの誕生の地を訪れる観光客だけになってしまう」と、ラヘブ牧師は危機感を訴えておられました。
 このような危機感が世界の教会を覆っています。このような時、私たちは新しい1年に向って、どのような気持ちで歩み出すことができるのでしょうか。

 さて、ここで、きょうの福音書に目を向けてみましょう。きょうの福音書は、夜通し漁をして何もとれなかったペトロたちが、イエス様の言われるとおりに網を降ろしたところ、おびただしい魚がかかった、という出来事です。ペトロたちは、漁の専門家です。普通ならば、素人のイエス様から、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」などと言われると、ムッと来るのではないでしょうか。「私たちは玄人なんですよ、漁にかけちゃぁ」とでも、口答えしたくなるのではないでしょうか。しかし、漁師シモンの答えは不思議です。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言いながら、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、その通りにするのです。
 この時のペトロの気持ちはどんな気持ちだったでしょうか。もう、日は昇っています。漁に適した時刻ではありません。夜通し網を降ろし、その成果は何もない。心も体もくたくたに疲れていたに違いありません。そのペトロが「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエス様に答えるのです。イエス様の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という語りかけが、疲れたペトロに力を与え、疲れたペトロを動かすのです。

 私は、ここを読むと、一つの聖画を思い出します。何という人の書いた、何という題の絵か知りませんが、イエス様が扉をノックしておられる絵です。この絵を見たある人が、けちを付けたそうです。「この絵には、ドアーのノブがないじゃないか。これじゃぁ、イエス様は中に入ろうとしても入れないよ」と。すると、この絵の作者は答えたそうです。「イエス様のノックの音を聞いて、中の人が開けてくれるから大丈夫だよ」と。
 イエス様のノックの音が、中の人を動かすのです。たとえ、中の人が、中で倒れ込んでいようと、イエス様のノックの響きが、その倒れている人を立ち上がらせ、ドアーを開けさせるのです。イエス様のノックの音の響きは、そのような力をもった響きなのです。ドアーを開けるのは、中にいる人です。しかし、ドアー開ける意欲と力を与えるのは、イエス様のノックの響きです。

 ペトロは、イエス様の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という語りかけに動かされて、その通りにしました。でも、その時、ペトロは、その漁に期待はしていなかったようです。それは、その漁の結果に驚いている様子から分かります。これが、私たちの信仰の姿ではないでしょうか。

 私たちは、現実に目を奪われ、その現実が全てであると思い込んでいます。その現実を越える出来事が起こるとは、私たちには到底思えません。しかし、神様には見えているのです。沖に漕ぎ出し、網を降ろせば、おびただしい魚がとれることが。

 今、私たちには、教会を取り巻く厳しい状況が重くのしかかっています。
 二十世紀は、科学の世紀と言われました。科学の進歩は、私たち人間を迷信から解放しました。その勢いをかって、人類は、宗教離れを起こすのではと思われました。二十一世紀は、脱宗教の時代であろうと予測されました。しかし、事実は逆でした。科学が支配する生活の中で、相変わらず息苦しさから逃れられない私たちは、人間を越えたものに救いを求めているのです。その意味では、宗教は衰えるどころか、益々盛んになっていると言えます。
 オウム真理教とか摂理とかいう、えたいの知れない宗教が世に蔓延りました。宗教は盛んですが、キリスト教は、今、力を失いつつあります。それは、当然のことです。宗教が盛んであるとは、御利益が、人間の欲望の充足が期待されていることに他ならないからです。御利益、つまり人間の欲望の充足が目的ではないキリスト教は、この時代、相手にされないのは当然です。そういう意味では、教会は、何時の時代もこの世から疎んじられて来ました。疎んじられながら、この世にはない価値を、そして、人間になくてはならない価値を、教会は証し続けて来たのです。そして、この教会が証しする価値、キリストの十字架と復活による、罪の赦しという救いが、地道な歩みながら2000年に渡ってこの世に受け入れられて来ました。
 今や、この教会の歩みが危機に晒されています。この地道な歩みが、ますます先細りになってしまいそうです。現に、私たち日本福音ルーテル教会は、ここ数年、洗礼を受ける人の数が減少し続けています。どこまで減り続けるのか、見当も付きません。2006年度の集計が、後1月足らずでまとまります。果たして、2005年度を上回る洗礼者があるのか。今、私は、固唾を呑んでその結果が出るのを待っています。

 その私に、慰めを与えてくれるのが、きょうの福音書です。私たちには、現実の厳しさしか見えません。その現実の厳しさは、現に数字となって現われ、わたしたちの前に立ちはだかっています。漁の専門家であるペトロたちが夜通し網を降ろしても、何もとれなかったのと同じように、教会を取り巻く現実は確かに厳しい状況にあります。しかし、イエス様は、疲れ切っているペトロたちに言われるのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。
 神様には、見えているのです。この世の本当の苦しみが。御利益では癒されない苦しみが。神様抜きには解決できない苦しみの中で、なおも神様抜きで解決を図ろうとしている人間の愚かな姿が。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人間の姿が。故に、教会の働きが必要なことが。

 教会を、この世が受け入れるかどうかが問題ではないのです。この世は、神様抜きで生き抜こうとします。その意味では、この世は、教会を受け入れようとはしません。そのようなこの世に向って、教会は福音を宣べ伝えなければならないのです。教会を取り巻く状況が厳しいのは当然のことです。神様は、教会の苦悩を御存知です。
 イエス様が、夜通し漁をし、何の成果も得ることができなかったペトロたちの疲れを良く分かっておられたように、神様は、この教会の厳しい状況の中で、希望を失いそうな私たちの気持ちを良く御存知です。その神様が「沖に漕ぎ出し、網を降ろせ」とおっしゃるのです。神様は、「希望をもって、新しい一歩を踏み出せ」と私たちに語りかけてくださいます。この神様の呼掛けに応えて、この現実にひるむことなく、希望をもって、新しい1年の計画を立て、実行して参りたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年1月21日

「琴線に触れられてみませんか」

ルカ福音書4章16〜30節

関野和寛

 今朝、わたしたちはルカ福音書のみことばを聞きました。教会では「みことば」「みことば」とよく言いますが、「みことば」とは一体何なのでしょうか。「みことば」それは命懸けで聞かなくてはいけない神のことばです。何故かと言いますと主イエスさま御自身がみことばを命懸けで語っておられるからです。
 主イエスさまはヨハネから洗礼を受けて、そして荒野で40日間の断食をし、そこで悪魔の誘惑を打ち破り伝道を開始しました。40日間の断食、そこでイエスさまは「この石をパンに変えて見たらどうだ」と悪魔から誘惑を受けました。けれども、イエスさまは「ひとはパンだけで生きるのではない」、つまり「神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのだ」そのように語られたのです。

 イエスさまはまさに命を懸けて「ひとは神のことばによって生きるのだ」そのことを語られたのです。そして今日のルカ福音書はイエスさまの宣教のはじめのことばです。イエスさま宣教をはじめた時から自分は十字架で死なねばならないことを知っていたからです。

 イエスさまのひとことひとことは何時も死と隣り合わせ、ひとことひとこと語るたびにあの十字架へと近づいていくわけです。分かりやすく言うならば、イエスさまのことばとは死を覚悟したひとのことばということです。だからこそわたしたちは全神経を集中させて神のことばを聞くのです。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる為である。」

 イザヤの書を読んだイエスさまはさらに「この言葉は、今日あなたがたが耳にした時実現した」と言いました。これを聞いたナザレ村の人々は仰天したのです。ユダヤの民が何百年と待ち続けた救い主が今目の前にいる、聖書が預言していた救い主が今なんと目の前にいるではないか!

 わたしたちの聖書では「主の恵みの年を告げる為である」と抽象的に約されていますが、正しくは「主が人々を救う時が来たのだ」という意味です。だからこのナザレの人々は「主が人々を救う時が来た、そしてその主そのものが今目の前にいるではないか」と驚き、皆が一斉に誉め出すのです。

 「救い主が目の前にいる」この劇的な出会いを台無しにしてしまうようなことをある人が言いました「この人はヨセフの子ではないか」。ナザレ村の人々は皆、イエスさまの父親大工のヨセフを知っていたのです。だからこそ言ってしまったのでしょう、「この人はあそこの大工の息子じゃないか・・・」。

 救い主が目の前にいる、人々を救う時が始まった、それだけで十分なのに人はそこに余計な解釈を入れ、余計なことを言い、ただ信じることをしなくなるのです。どうでしょうか、皆さん聖餐式を思い出して見てください。「これはあなたの為に与えられたキリストの体です」と言われたとき、「嘘だ、これはただのパンだよ」そう考えながら受け取る人はいないでしょう。

 「あなたの為に流されたキリストの血です」と言われた時に「いやいや、これはワインだよ…」と思いながら聖餐式を受けているひとはいないでしょう。それはイエスさまが「これはわたしの体」「これはわたしの血である」そう語ったからです。わたしたちはイエスさまのことばを信じているからこそ、パンとぶどう酒をキリストの体と血として受けるのです。

 けれどもひとは信じきることができない、石橋を叩きながら渡ってしまう「本当かな、本当に神さまは助けてくださるだろうか」と。またひとは神さまを信じる時、先ず自分の幸せを先に願ってしまう。ナザレ村の人々もそうでした「先ず自分によいことをして欲しいイエスさまはこのナザレ出身だからここでもきっと奇跡を見せてくれるはず!」そう思ったのです。

 けれどもイエスさまはそのようなこころを全てお見通しでした。「預言者は故郷では歓迎されない」、つまり「ここナザレでは何もしないよ」と言ったのです。人々は激怒し、イエスさまを町から追い出し山の崖から突き落とそうとするのです。つまり、殺そうとしたのです。

 このナザレの人々の行動は極端に見えます。けれどもこの人々の行動は実はわたしたちの信仰を表しています。わたしたちは確かに喜んで自ら教会に来ます。けれどもどうでしょうか、教会をから一歩外に足を踏み出した瞬間に神さまのことを忘れ、また忙しくなると神さまのことばである聖書を疑うどころか、読むこともしなくなりはしないでしょうか。

 神さまが自分のこころから消えてしまった時、それはわたしたちが主イエスさまを崖から突き落としてしまったといっても過言ではありません。わたしたちは調子が良い時は祈り讃美するが、自分に都合が悪くなると神さまを自分の中で消してしまいます。

 ナザレ村の人々は、イエスさまを見た時、喜びに満ち溢れました。けれどもその姿を見た瞬間、「大工の息子なのに」と疑いはじめ、そして一度ナザレでは活動しないと聞いた瞬間、怒り狂い崖から突き落とそうとしたのです。

 人のこころは恐ろしいほどに裏表があります。わたしたちはこのナザレの人々になっていないでしょうか。ある時は神を喜び、ある時は神に対して怒り狂ってはいないでしょうか。教会に来ていない時にでも喜んで神を讃美しているでしょうか。

 イエスさまはナザレでは活動しないと言ったのではありません。「この救いのことばはあなたたちに実現する」と言われたのです。けれどもそれを聞いた人が、それを疑い自分勝手に解釈しているのです。ここに神さまを信じきれない人の弱さがあります。

 だからわたしたちは疑わずに、考えずにただただ神さまの大きな愛、命懸けのことばを聞き、そこに包まれるのです。主があの十字架、御自分の最大の恐怖であるあの十字架に向かいながら言うのです。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主が人々を救うときが来たのだ」そして「この言葉は、今日あなたがたが耳にした時、実現した」と言いました。

 だからこそわたしは断言します。このことばがあるからこそ、わたしたちの貧しさ、恐怖や不安に悩まされるこころの貧しさは慰められる。イエスさまが捕らわれている人に開放を圧迫されている人に自由をとおっしゃった。わたしたちが今日抜け出すことのできない柵はなんでしょうか、わたしたちを苦しめる力はなんでしょうか。
 今日みなさんの目には救いが映っているでしょうか、そのこころに希望を持つことができているでしょうか。わたしたちが救いを見ることができないとき、主は必ず皆さんの目を開いてくださいます。

 あの十字架にかかったイエスさまが「これはもうすでに実現した、このことばを聞いた瞬間に実現した」とおっしゃっているのです。わたしたちはこのイエスさまの言葉を聞くのです。何も疑うことなく、何も考えることなく、クリスマスのマリアのように「そのようになりますように」と神の愛の中に全てを委ねていくのです。「救いが今日、実現した」そうおっしゃってくださる、イエスさまが皆さんの歩みを支えます。この主の愛がわたしたちを包むのです。

 

 

2007年1月14日 主の洗礼日

「御心に適う者」

イザヤ 42:1-7  使徒言行録 10:34-38  ルカ 3:15-22

山之内正俊

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日は、イエス様が洗礼を受けられたことを記念する日です。
 イエス様の洗礼を記念する日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネに関する記事から始まっています。洗礼者ヨハネは最後の預言者と言われています。その最後の預言者ヨハネは、領主ヘロデによって殺されますが、その直前に最後の預言者としての仕事を致します。その仕事が、イエス様に洗礼を授けることでした。このヨハネの洗礼について、聖書には3章の3節に次のように記されています。

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

 ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、それを実施したのです。そのヨハネから、イエス様は洗礼を受けられたのです。神の子が、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受けるとは、どういうことでしょうか。ヨハネも、このことに戸惑いを覚えたようです。
 マタイによる福音書には、その時のヨハネとイエス様の遣り取りが次のように記されています。マタイ3章の13節から15節までです。

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」

 ヨハネは、神の子が「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受ける」などということはあり得ない、いや、あってはならない、という思いで、イエス様に思いとどまらせようとします。それに対してイエス様は、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言って、ヨハネから洗礼を受けられるのです。イエス様は、神の子であるご自分が、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受ける」ことは、正しいことだと言われるのです。これは、どういうことでしょうか。

 フィリピの信徒への手紙2章6節から8節に次のように記されています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 また、ヘブライ人への手紙2章17、18節には、次のように記されています。

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

 神様は、神の高みから、罪に堕ちた人間を見下し、そして命令をされるお方ではなく、私たち罪に堕ちた人間とすべての点で同じようになられたのです。罪人の位置にご自分をおかれたのです。その現われとして、神の子イエス様は、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受け」られたのです。

 わたしは、このイエス様の洗礼を思うとき、思い出す一つの話があります。
 カトリックのある神父がお書きになった本で知ったことです。
 ある公園での出来事です。3歳位の男の子が転んで泣き出しました。母親は、自分で起き上がるのを期待してか、知らないふりをしています。その子はなかなか泣き止みません。すると、突然、5歳位の女の子が、泣いている子のそばまで駆け寄り、自分もバタンとその子の横に倒れたのです。泣いていた子は、びっくりしたのか、泣き止み、女の子を見ます。女の子は、その子を見てニッコリ笑います。すると、その子もニッコリ笑います。そして女の子は言います。「じゃあ、起きようか。」すると、男の子は、「うん」と返事をします。二人は一緒に起き上がります。それを見ていた一人の婦人が言ったそうです。「その子が、神か仏に見えた」と。
 この女の子の気持ちは、神であることに固執せず、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受け」られたイエス様のお気持ちと同じだったのだと言えば言いすぎでしょうか。
 この「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受け」られたイエス様に向って、神様は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われるのです。

 キリシタン大名の一人に高山右近という人がいます。確か、2000年の暮れのことだったと思いますが、NHKの「おはよう日本」という番組で「21世紀にのこす言葉」というシリーズ番組をやっていました。その番組に、加賀乙彦氏が出演しておられ、「世の栄達に何の値あろうぞ」という言葉をご自分が21世紀にのこしたい言葉として紹介しておられました。加賀乙彦氏は、ご存知の方も多いと思いますが、精神科の医師で、作家で、カトリックの信徒でいらっしゃいます。私は氏の作品は殆ど読んだことはありませんでしたが、氏がカトリックの信徒になられたいきさつを書かれた本を読んだことがあり、いずれは作品をじっくり読んでみたいと思っていた作家の一人でした。
 「世の栄達に何の値あろうぞ」は、あの戦国武将高山右近の言葉だそうです。番組の中で、加賀氏は、ご自身が『高山右近』という作品を著わされたと言っておられましたので、早速、買い求めて読みました。その中に、次のような下りがあります。

「高山殿、貴殿は御成敗による死を恐れぬか」
「これは異な御質問じゃ。出羽守殿は主君のために死ぬを恐れるや」
「いや、とんでもないこと」と彼は言下に激しく否定した。
「拙者もまったく同じでござる。主なる神、デウスは、わが主君なれば、そのために死ぬのはすこしも恐れませぬ」

 この下りは、キリスト教禁令を犯した科人として護送される途中で、護送の責任者出羽守殿と右近が交わした会話です。私はこの下りに、深い感動を覚えずにはおられません。この右近が「世の栄達に何の値あろうぞ」と言っているのです。「御心に適う者」として生きようとする右近の気魄が迫って来るようです。

 恵みの先行性、これはわがルーテル教会の教えの命です。神様は私の行いに先行する恵みによって私の罪を赦し、私を救って下さいました。この信仰に疑いの微塵もありません。だが、この恵みとは一体何でしょうか。私の欲求を満たしてくれるもの、それが恵みでしょうか。もしそうであるならば、神様は私の思いのままに私に仕える私の召使に過ぎなくなってしまいます。
 今、キリスト教が力を失っているといわれます。その原因は、牧師も信徒も、恵みの意味を履き違えているからではないでしょうか。私たちは、神様が私たちに仕え、私たちの欲望を叶えてくださることを、神様の恵みと思ってはいないでしょうか。
 ボンヘッファーという神学者が言った「安価な恵み」が、今、横行しているのではないでしょうか。「安価な恵み」とは、律法抜きに語られる恵みです。従って、悔い改め抜きの恵みです。律法によって、自分が底なし沼の罪人であり、滅ぼされて当然であることを知らされ、その滅びに耐えられないが故に、憐れんでくださいと叫ばざるを得ない自分であることを自覚させられます。
 このような私たちに、神様は仕えて下さいます。それは、神様に逆らい神様に怒りを引き起こし、その怒りによって滅ぼされるべきものへと自らを変えてしまった私たちを、その滅びから免れさせることによってです。私たちに向けて発せられた神様の怒りを、神の子が受け止めるという仕方で、私たちを滅びから免れさせてくださったのです。自分の力では償うことのできない罪を、その罪の被害者であられる神様ご自身が無償で引き受けてくださったのです。これが、神様から私たちに与えられる恵みです。

 イエス様は、神の子でありながら、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受けられました。これは、神の子が徹底して罪人と等しくなるための出来事でした。ここには、神の身分を捨てた神の子の姿があります。これが御心に適う者の姿です。

 「世の栄達に何の値あろうぞ」とは、人間が人間としての欲望を捨て、神様のための自分として自分を位置付けたときに言える言葉です。これは、人間が人間の力によってできることではありません。神様がその人を動かされるとき、その人に限ってできることです。
 「世の栄達に何の値あろうぞ」これは、高山右近という歴史上実在した人物の言葉です。神様が生きておられ、高山右近という一人の人物を動かされた証拠です。

 神様は私たち全ての人間の唯一の主君です。そして、神様は私たちの主君であると同時に、私たちの恵みの主です。主君のために生き、主君のために死ぬ喜び、これが神様から与えられる真の恵みなのではないでしょうか。
 神様ご自身が、私たちに恵みを与え、私たちを「御心に適った者」にして下さいます。私たちを喜びの中に日々を過ごさせたいと常に温かい眼差しを注いでくださっている神様に感謝しながら、今日からの一週間を過ごして参りましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2007年1月7日 顕現主日

「母を訪ねて3千里」

マタイ福音書 2:1-12

関野和寛

 母を訪ねて三千里みなさんこの有名な漫画を御存知でしょう。幼い少年マルコが貧しさの為にイタリアからアルゼンチンまで出稼ぎに行った母親を訪ねていくという名作です。幼い少年マルコは「大切なお母さんに会いたい」この不滅の愛に突き動かされて母に会いにいくのです。

 この純粋で強い愛に多くのひとは感動させられる訳です