2007年6月10日 聖霊降臨後第2主日礼拝
「赦し、それでいい」
ルカ福音書6章37-49節

関野和寛
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先日、あるフィンランドの牧師が「教会はガソリンスタンドだ!」と言っていました。彼はフィンランド人ですが、初めて日本にやってきた時日本のガソリンスタンドのサービスの良さに感動したのです。
今でこそセルフサービス(自分でガソリンを注ぐ)スタンドが増えてきましたが、日本のガソリンスタンドは入ったとたんに店員が駆け寄ってきて「はいオーライ オーライ はいストップ いらっしゃいませ!」と笑顔で迎えてくれ、注文を聞いてくれます。注文をすると今度は「灰皿やゴミはございませんか?」と車の中のゴミを捨ててくれ、ガソリンを入れている間に二人三人の人が車のガラスやミラーを拭いてくれます。そしていざガソリンが満タンになると「お帰りはどちらへ?」と安全に道まで送り出してくれます。この日本のガソリンスタンドサービスは世界一だそうです。
そして「教会はガソリンスタンド」、皆さんを笑顔で迎えたいと思うわけです。でも考えてみればガソリンスタンドの満足度が高いのはやはり窓やミラーを拭いてくれ、車内のゴミを捨ててくれる瞬間があるからでしょう。しばらくきれいにしていない部分、手の届かない所を洗い上げてくれるから心地がよいと思うのです。
わたしたちも過ぎ去った一週間の中でガソリン、元気を使い果たしてしまい。時に人を傷つけたり、傷ついたり、沢山の想いを抱え込んでこの教会に辿り着いています。正直、誰もが渇いて疲れて、汚れきっています。教会はガソリンスタンド、わたしたちは今日この礼拝に足を止めてイエスさまの言葉に耳を傾けるのです。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすればあなた方も罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい、そうすればあなたがたも赦される。」
この御言葉を一言でいうと、自分の中にある罪に目を向けよということです。人を裁く罪、他者を悪と決め付ける罪を悔い改めよとイエスさまは語るのです。イエスさまはこの言葉を12人の弟子を選んだ直後に語りました。つまり弟子になる者の大原則を語っているわけです。
弟子たる者神の国を人々に広める者は、何かを教えるたり押し付けたりするのではなく、まず自分の中に罪にまず眼を留めなくてはいけないということを主は語りました。これから大勢の人々に出会うだろう、理不尽なことを言われ、ひどい仕打ちを受けるであろう。でも決して人を恨んではいけない、人を悪とみなしてはいけないということを弟子たちに語ったのです。そしてこれは絶対に忘れてはいけない戒めでした。
皆さん礼拝で主の祈りを祈っていますでしょう。多くの人がそらんじて祈れるはずです。「われらに罪を犯すものを我らが赦すがごとく、われらの罪をも赦したまえ。」 皆さん本気で祈っていますか。祈り流してはいないでしょうか。「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく(わたしたちに罪を犯すものを赦しますから)」と祈っていますか。
あいつだけは赦せない。誰がなんと言おうとあの人が200%悪い!」わたしにも、赦せない人が何人も居ます。普段はにこにこしていますが、思い出すだけで腸が煮えくり返りそうな人が居ます。そういう馬鹿とは付き合わないのが一番、相手にしないのが一番です。と言いたいところですが。でもそのような相手これだけは赦せないという相手だからこそ、その人の為にわたしたちは祈るのです。それこそが主イエスさまの命令だからです。「人を裁くな、罪人だと決め付けるな、赦せ」という命令だからです。
なぜこの命令か、それは人を何処までも赦し続ける事によらなければ得られないものがあるからです。自分が少しも悪くなくとも相手を受け入れる事、そこでしか得られない恵みがあるからです。
人を批判し、裁き続ける心には蓋が閉まってしまいます。例え自分に非がなくとも200%正しかったとしても、人を悪く思う瞬間わたしたちの心もまた罪に染まりだすからです。「あの人は間違っている、このことだけは絶対に赦せない」、けれどもそう思った瞬間わたしたちは独善的になってはいないでしょうか「あの人が悪い、自分は正しい」と。
イエスさまは人の心を見事に捕らえました。「自分の目には丸太があるのに、人の目のおがくずを取るな」、「あなたにも罪がある、それは相手の罪よりも大きいのだ」と。パウロは語りました「義人はいないひとりもいない」と。神さまの目から見るならば、全ての人に罪があるのです。誰も罪を犯していない人などいなく所詮は人間の基準で罪の大小を比べ合っているに過ぎないのです。
誰にでも罪があります。罪という言葉の聖書の語源は「まとはずれ」という言葉です。罪とは犯罪を犯していない状態や、倫理道徳に反していない状態のことではありません。罪とはわたしたちの心が神さまに向いていない状況を言うのです。自分勝手な感情や相手を裁く怒りに支配され神と深く交わる心を忘れた状態こそが罪なのです。
パウロは語りました「罪の報酬は死である」と。罪に支配される心は嫌悪感と失望に満たされ蝕まれていきます。どんなに自分の行いが正しくとも、人を憎み裁く心には罪が忍び込んでくるのです。人を憎む心、相手を批判する心、そして自分自身をも憎む時わたしたちの心は空しさと絶望に支配されていくのです。
だからこそ教会はガソリンスタンドなのです。わたしたちの心に詰まった罪を吐き出して、こべりついて離れない汚れや罪を洗い流してもらうのです。それがこの教会です。そしてわたしたちは教会で新しい力を貰うのです。だからこそ礼拝には罪の告白があり、主の祈りがあるわけです。わたしたちはそこに自分の存在の全てを委ねていくのです。その罪の告白に自分に詰まっている苦しみを吐き出して行くのです。
わたしたちが罪を犯すことは避けられません。誰も心に悪を思わない日は1日たりともありません。どんなに気をつけても人は汚れていきます。でも汚れているのが悪いのではありません。汚れていないふりをすることがいけないのです。罪を隠し、罪がないかのように歩むことがよっぽど危険なことです。神はそのような心をお喜びにはなりません。罪を隠すということは、自分と十字架を切り離すことです。自分に罪の赦しがないとするのであれば、それはあの十字架からキリストを引きずり降ろすことに他ならないのです。
とても苦しんでいる時、辛い「時本当に神はいるのだろうか」と思うことがあります、でももしわたしたちにキリストが見えないのだとしたら、それはわたしたち自身がキリストをあの十字架から引きずり下ろしているのかも知れません。もし自分の中にはある罪を全く無視して、相手だけを責め続けるのであればそれはあの十字架の上で苦しんでいるキリストの体にもう一発釘を打ち付けることになりませんでしょうか。
あの十字架の本質から目をそらしてはいけません。キリストはあの十字架の上で赦しを語りました。自分の命を奪うものにさえ「父よ彼らをお赦し下さい」と語ったのです。隣で十字架にかけられていた犯罪人には、「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と言いました。その人の今までの罪を赦し、その人の存在を包み天国へと誘っていったのです。
この世に悪い人などいません。誰も悪くはありません。罪に汚されている人が多すぎるだけです。罪に汚され過ぎている人が多いだけです。たった一つの不満が全てのことを見えなくしてしまうのです。たった一つの不満、一粒の悲しみを吐き出してください。ガソリンスタンドでガソリンを満タンにしてもらうためには、自分が空っぽなこと、もう前に進めないことを知っていなくてはいけません。自分が汚れていることを知っていなくてはいけません。
皆さんは渇いています。一週間の歩みで疲れきり汚れきっています。だからこそようこそ今朝も教会へ来てくださいました!ガソリンスタンドがなかった当時のパウロは「教会はキリストの体である」と語りました。この教会はあの十字架で傷ついたキリストの体です。わたしたちの痛みや苦しみを取り除くために苦しまれたキリストの体です。罪人を赦したキリストの体です。ありのままのわたしたちを赦すキリストの体です。
教会はキリストの体です。死という恐怖さえも打ち破り、人々に終わることのないいのちを与えたキリストの体です。エマオで弟子たちを追いかけたキリストの体です。
だからこそわたしたちはガソリン満タン、聖霊を満タンに受けて歩んでいきましょう。神はわたしたちの懐に幸せを押入れ、揺すり入れ溢れるほどにしようとしているのです。溢れるばかりの恵みの1週間を皆で過ごしていきましょう。

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