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日本福音ルーテル東京教会
〒169-0072
東京都新宿区大久保 1-14-14
TEL:03-3209-5702
FAX:03-3204-5703
[E-Mail]
jelctkyo@mb.infoweb.ne.jp

説教・説教集

今週の説教 きずな 説教集

きずな

きずな

※「きずな」は東京教会の広報誌です。詳しい内容をお知りになりたい方は、
電話メールなどで教会までお問合わせください。

◇きずな 2008年4月号 ふたつのJ「ジャズとジャムの礼拝」
議長雑感
◇きずな 2008年3月号 風流人になりたい
この人の為に話そう
◇きずな 2008年2月号 四旬節のすすめ
新任牧師へ餞の言葉
◇きずな 2008年1月号 今年の漢字を「謝」に
ネイティビティーはかく語る
◇きずな 2007年12月号 映画「マリア」より −ネイティビティーを探して−
クリスマスに寄せて
◇きずな 2007年11月号 子供のように
グロリアを歌いたい
◇きずな 2007年10月号 キリストバザール
信仰の継承
◆バックナンバー◆ 2006年10月号〜2007年9月号

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きずな  2008年4月号

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ふたつのJ「ジャズとジャムの礼拝」

関野 和寛

 札幌バンドの内村鑑三先生は「ふたつのJを愛する」と言われた。ふたつのJそれはすなわちJesus(イエス)とJapan(日本)である。日本に生まれ、そしてイエス・キリストに出会った内村鑑三先生の明言である。「JesusとJapan」まで大きな事は言えないが東京教会もふたつのJの礼拝を持った。3月30日の復活後第一主日の礼拝を「ジャズとジャムの礼拝」と題して行った。イースター後の礼拝、イエスさまの復活を味わいたいと思いジャズバンド石井真カルテットの皆さんに礼拝でジャズを演奏していただいた。アメリカなどではジャズ礼拝などが定着しているが、日本で復活後の主日にジャズ礼拝を行ったのは東京教会だけであろう。軽快なリズムで始まり、イエスさまの復活を祝う讃美歌もジャズの伴奏で讃美した。はじめての試みだったがはっとさせられた。復活のイエスさまと再会を果した弟子たちは腰が抜けるほどびっくり仰天したはず、抑えきれない喜びが心からあふれ出したはず。でも世にある教会はイースターの余韻を残すことなく淡々と6週間の復活節を過ごしていくのみ。もっと喜ぶべき、この上なく嬉しいはず。
 このジャズの演奏と共に教会に花を添えてくれたのが練馬にある障がいを持つ方々の作業所ホサナショップであった。彼らが真心を込めて作ってくれたジャムをお誕生日の方々にプレゼントし、礼拝後に販売を行ってもらった。ふたつ目のJは彼らが作ってくれたジャムである。礼拝の最後にホサナショップで働いている方が短く証をされた。「自分は脳出血で障がいを持ち社会復帰ができなくなった。けれども神さまはホサナショップで働かせてくれ、皆で集まってジャムを作りそれを皆で販売できるのが凄く嬉しい」と語ってくださった。飾らないストレートな証が強く心に響き渡った。その方の復活の証である。イースターのイエスさまの力は本当にわたしたちを豊かにする。ジャズの余韻に浸りながらジャムを一口舐めて見た。甘さと酸っぱさの奥で、深い深い復活の味がする。喜びをもっと!


議長雑感

山之内正俊

 後二月足らずで総会議長を退任します。六年間、議長の任を勤める中で感じたことを率直に述べて、日本福音ルーテル教会の一員としての喜びと反省点を共有したいと思います。
 まず、日本福音ルーテル教会の良さは、何と言っても自由な点です。「ねばならない」が一つもありません。これは、この教会が宗教改革の流れを汲む教会であり、その宗教改革の原理の一つに「信仰のみ」があることに由来しているからだと思います。信仰の命は自由です。義務や強制は信仰を殺します。その意味で、私たちの教会が自由に徹していることは、誇るべきことだと思います。この教会で洗礼を受け、この教会だけで育った人は、この教会がいかに自由であるかということに気付いていないかも知れません。また、信仰にとって自由がいかに大事な要素であるかということも意識にないかも知れません。しかし、現代でも、教会の中には幾つかの義務規定をもうけている教会があるのです。例えば、酒を飲んではならないとか、煙草をのんではならない、から始まって、他宗教の行事(葬儀など) には参加してはいけない、日曜日には教会の礼拝に出席しなければならないなど、様々な義務規定が定められた教会があります。私たちの教会に、このような信徒として守るべき義務規定がないことは、私たちが本当の信仰の喜びを味わう環境が整っていることを意味します。この環境は最大限に大事にすべきことです。信仰にとって自由は命だからです。
 次に、日本福音ルーテル教会の問題点を考えてみましょう。
 日本福音ルーテル教会は、海外のルーテル教会によって開拓伝道され生まれた教会です。当初から、海外教会への依存体質が問題とされていました。特に、経済的な依存体質です。海外から潤沢な資金援助がなされ、それによって教会が運営されていましたので、日本の信徒の意識の中に、教会は自分たちで維持運営すべきものだという意識がなかなか育たなかったのです。随分昔の話ですが、こんな話しを聞いたことがあります。ある教会の信徒の人が、会計役員から次のように言われたそうです。「あなたの維持献金は多すぎるからもっと下げなさい。教会は、こんなに献金をしなくてもやって行けるから」と。また、ある教会では、年度末に、予算が余ったので、急遽、壮年会、婦人会、青年会がそれぞれ行事を持ち、予算を消化したそうです。その予算の収入は、殆どが海外教会からの支援金です。このような経済的な依存体質は、今でも根強く尾を引いています。これは、私たちの教会の大きな問題です。
 次に、問題なのは、内向き体質です。福音の喜びを教会の外に向って伝えようという気魄が、福音のもつ力のままには感じられないことです。教会共同体を進める中で、ある代議員がこんなことを言っておられました。「こんな制度をつくれば、牧師が走り回らなければならなくなり、私たち信徒の世話がおろそかになる」と。牧師が伝道のために走り回らなければならないのは、結構なことではないでしょうか。牧師は「内向きに」信徒の世話をしておればそれでいいというものではないのです。そもそも信徒の世話とは、信徒の信仰の喜びを増し、信徒を伝道へ向けて整えることではないでしょうか。
 自由であることを大切にしながら、依存体質と内向き体質の改善を目指して進みたいと思います。

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きずな  2008年3月号

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風流人になりたい

山之内正俊

 牧師館の入口の二本の梅の木に花が咲いています。赤と白の花がとてもきれいです。もう十日も咲いているでしょうか。桜は咲いたかと思えば直ぐに散ってしまうという思いが致しますが、梅の花は寿命が長いというか、咲いている期間が長いですね。まだまだ一週間やそこらは咲いていそうです。
 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」ご存知、学問の神様といわれた菅原道真の歌です。九州の大宰府に左遷された菅原道真は、都にいた時に愛した梅の花を偲んでいます。その花を偲びながら、東の方、即ち、都の方から風が吹けば、匂いを発してくれ、主(菅原道真自身)がいなくなったからと言って、春が来て花を咲かせる時期になったことを忘れないでくれ、と歌っています。菅原道真はなかなか風流人のようです。でも果たしてそうでしょうか。この歌に込められた本当の気持ちは、無念にも左遷されたことへの悔しさ、都へ早く帰りたいという、役人の出世根性ではないでしょうか。もし、このような左遷されたことへの悔しさが道真の心になかったならば、この歌は生まれてこなかったでしょう。風流に梅の花を愛でる心より、都に帰って出世コースに早く戻りたいという気持ちの現われが、この歌だとみるべきではないでしょうか。
 実のところ、私は今、きれいに咲いている梅の花をじっくり味わう気持ちになれません。総会議長としての任期が後3ヶ月足らずで終わりますが、その前に、全国総会が控えています。今、その準備で、心が塞がれているのです。梅の花を見ても、きれいだな、長く咲いているな、いつまでさいているんだろう、ぐらいで、自然の営みに感動するという喜びは味わえずにいます。せっかくの自然からのプレゼントを無駄にしているのです。早く、この責任から解放され、梅の花の美しさを心から楽しみたいと思います。そこで一句。
 「鮮やかにいつまで咲くや梅の花」


この人の為に話そう

関野 和寛

 本当に早いものでこの4月から牧師3年目に入る。神学校時代より、よく先生方から聞かされた「牧師3年目には必ずスランプに陥る」と。なんでも多くの牧師は3年目になると大きな壁にぶつかる。実感を持ってまた自信を持って説教が出来なくなるのだという。マタイ、マルコ、ルカ3つの福音書を一通り説教し、聖書的発見が薄れたり、自分の信仰がぐらついたり、何を話していいのか分からなくなったり色々と行き詰るのであろう。綺麗事を抜きに日々自信は揺らぐし、神さまの事が分からなくなる事も多くある。
 去年冬に差し掛かった頃、牧会の事で頭を抱え説教を作る時間とゆとりさえなくなってしまった時があった。20分の説教をするには原稿用紙約9枚3500文字を書き上げる。神学校で学んだとおりに聖書を原典のギリシャ語で読んでさらに分厚い註解書も何冊も目を通す。それだけの物を釈義すれば原稿用紙を満たすこと事は出来る。
 けれども説教は単に聖書の解説だけではなくメッセージであり、イエス・キリストがわたしたちに今ここで何を伝えようとしているかなのである。それを掴み取り教会に集う人々に伝えるのが牧師の職務である。だが「伝えたいメッセージ」がその時は掴み取れなかったのだ。土曜日の晩、教会に泊まり必死に聖書と睨めっこをしても筆が進まない。あと1000文字、伝えたいことが全く出てこないのである。どんどん辺りが明るくなってくる「後1時間で朝7時の礼拝が始まってしまう・・・」悔しさと情けなさで涙が出そうな想いであった。
 そんな時、あと1時間、あと1000文字という時、ある会員の方がわたしの所に来られ涙ながらに「先週あった苦しいことの為に祈って欲しい」と言われた。焦る気持ちを抑え一緒に礼拝堂に行って必死に祈り、神さまの答えを求めた。ゆっくりと目を開けるとその方が少し微笑みを取り戻されていたように思えた。「あと1時間、あと1000文字そんな事はもうどうでもいい、この人の為に説教しようイエスさまの話をしよう」そう思ったのだ。その瞬間大きな光が見えた気がした。
 「良い説教ができなくてもいい、この人を励ますために一生懸命やろう」とそれ以来、教会の皆を思い浮かべながら説教を書くように心がけている。
 早3年目、まだ3年目、新任の牧師は3年で移動と囁かれる時もある。けれどもそんな事を考えながら働いた日は1日もない。「この人の為に話そう」そんな一瞬に出会える牧会をしたい。説教は皆さんがいてはじめて完成する。昨日は珍しく教会員の方が4名立て続けに来られた。伝道の計画のことであったり、結婚式の話であったり、世間話であったりする。皆「お忙しいのにすみません」と気を使ってくださっているし、平日に教会に来る会員はほとんど居ない。けれども牧師はその為に居るのだ。5月からは山之内牧師も常に居てくださる。皆是非、平日教会に足を運んで欲しい。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのです」コリントの信徒へ向けたパウロの手紙は真実だ。3年目もよろしく。

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きずな  2008年2月号

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四旬節のすすめ

関野 和寛

 「おっ父の病気が治るなら、魚食べるのを断つ」、わたしたちの国では古来より願掛けの為に自分の好きな物を断つ習慣がある。一番好きな物を食べることを手放すという事は単純なようでとても大変な事。是非、自分の願いと引き換えに一番好きなものを断つとしたら皆頭に何を浮かべるだろうか?「一生ラーメンを食べない」「昼寝は無し」「デートもお預け」、どれもこれも苦しい選択である。
 だが苦しみの中で人々の心から湧き出す神仏に対する必死な信仰心は美しくもありまた力強い。大切な人の為に一番大切なものを断つ、それは何が一番大切かを選び取る心の選択にもなる。皆にとって一番大切なものは何であろうか。そしてその為だったら何を断つだろうか。瞬時にそれを語ることは難しい。
 2月6日の水曜日から四旬節がはじまった。教会の暦ではこの日からイースターまでキリストの十字架の苦しみを覚える期間になる。初代教会ではこの時期に断食、祈り、ざんげ、教理の学びなどが必死に行なわれイースター(復活祭)を迎えてきた。東京教会でも去年より灰の水曜日の祈りをはじめている。棕櫚の葉の灰を額に塗り、「塵にすぎない人間の存在が塵にまた戻る」ということを静かにこころに刻むのである。去年より多くの方々が集まって来られた。聖パウロが語るように、キリストの苦しみに参与する者がキリストの復活に与かるのである。つまり四旬節、キリストの苦しみに身を置かなくては本当のイースターを味わうことはできないのである。イースターの一週間前の受難週は連日礼拝を持つが驚くほどに参加者が少ないことを残念に思う。まだまだ遅くない、是非ともこの四旬節に心と行ないとを持ってキリストの苦しみを覚えて欲しい。
 大切なものを断ち、一番大切なものを選ぶ。わたしの為に苦しみたもう神の子に思いを重ねる。苦しみと悲しみの四十日間、語ること少なく静かに祈りつつ待ちわびる。大切な人をじっと想い、人知れずその人の為に何かを犠牲にする。現代の忘れ物はもしかしたらこの時間かもしれない。耐え忍ぶ心にイースターを、待ちわびる季節に春をひとつ。


新任牧師へ餞の言葉

山之内正俊

 今年も新しい牧師が誕生します。牧師として任用されることが決まった5人の神学生は、今、期待と不安の中で、赴任の時を待っていることでしょう。その5人の牧師候補生に、餞の言葉を贈りたいと思います。
 「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝たえなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」パウロが若き弟子、テモテに贈った言葉です。ここに、「折が良くても悪くても」とありますが、御言葉を宣べ伝たえるのに良い折とは、どのような折でしょうか。本当にそのような折があるのでしょうか。私は、御言葉を宣べ伝たえるのに良い折など無いというべきだと思います。なぜなら、人は皆、神様に逆らっているからです。
 私たちが相手にすべきは人間です。その人間は、神様に逆らっています。聖書に、「正しい人はいない。一人もいない」とある通りです。ルターもまた、あの九十五カ条の提題の最初に、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・・』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と言っています。私たちキリスト者と言えども、生涯にわたって悔い改め続けなければならない、とルターは言うのです。人間とはそのようなものだということです。そのような、神様に逆らっている人間が、私たちがなすべき、御言葉を宣べ伝える相手なのです。御言葉を宣べ伝えるのに、良き折などあろうはずがありません。そして、なお困難なことには、人間は誰一人、自分が神様に逆らっているなどとは、考えてもいないのです。
 そのような人間を、イエス様は「深く憐れまれた」と聖書は記しています。ここに、キリスト教の独自性が現われています。その独自性とは何か。それは、即ち、神様に逆らっている人間を、神様の独り子が憐れまれるという福音です。被害者であられる神様が、加害者である人間を、神様への加害者であるが故に死をまとった命を生きねばならなくなった人間を、永遠の命へと回復してくださるという、驚くべき事実です。この驚くべき事実を、この世に浸透させていくこと、それが、教会の使命であり、その教会の指導者として召されること、それが教職授任按手を授けられるということです。
 聖書の時代は、二千年前に遡ります。二千年前の時代状況と今日の時代状況は異なっています。そこに、聖書の内容を今日の時代状況に翻訳する作業が必要になります。これが、牧師の中心的な職務です。この職務を全うすることは、至難の業です。しかし、そこには、こつがあります。それは、この福音書の個所で言えば、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見」抜くことです。一見、豊かに見え、幸福に見える家庭にも、必ず、家庭を崩壊しかねない問題が潜んでいます。「正しい人はいない。一人もいない」のです。問題を抱えていない家庭、問題を抱えていない人間などいるはずがありません。これは、時代を超えた事実です。何時の時代も、誰もが、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のです。
 この視点をしっかりと定めること、これが、今日の時代状況の中で、牧師として生きることです。

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きずな  2008年1月号

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今年の漢字を「謝」に

山之内正俊

 明けましておめでとうございます。皆様には、神様の祝福の内に、新しい年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 日本では、2007年を表わす漢字は「偽」でした。残念ですが、去年一年を振り返ったとき、納得せざるを得ません。
 でも、考えてみますと、聖書は「義人はいない。一人もいない」と言っているのですから、この世の中が「偽」で覆われるのも仕方ないことだと、いわざるを得ないのかも知れません。私たち日本人の誰も、日本に「偽」が蔓延していることを責めることはできないのではないでしょうか。自分もその「偽」を蔓延させている一人だということを自覚することが大事なのではないでしょうか。
 問題は、そのような自分であることを自覚しつつも、生きることに積極的になれるのはなぜかということです。聖書的に言えば、罪人の一人でしかない自分であるのに、生きる喜びを得ることができるのはなぜかということです。答えは決まっています。イエス・キリストの十字架があるからです。私たちは、自分が生きている限り罪人でしかないことを知っています。にもかかわらず、なおも生きることに意欲的であり得るのは、神様の独り子の十字架の意味を知らされたからです。赦しの中にある自分を見出すことができたからです。「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺にならえば、キリスト者の生き方は、「罪を知る者ほど深き信仰かな」ということになるのではないでしょうか。
 「偽」としか表わせない日本にしたのは自分だという自覚をもち、そして、そこで開き直るのでもなく、また、そこで悲嘆に暮れ、希望を失うのでもなく、あの十字架をみつめ、赦されている自分であることに感謝する一年でありたいと思います。そして、今年一年を表わす漢字が「謝」となる一年であればと思います。それは、感謝の「謝」であり、また、謝罪の「謝」でもあるのです。


ネイティビティーはかく語る

関野 和寛

 二〇〇七年クリスマス、皆さんはいかが過ごされただろうか。わたしは多くの場所で様々な方々に説教をさせていただいた。高校のクリスマス礼拝や女子大学生寮にも出向いた。所変われば人も変り、人が変わればまた説教も変わる。だがどの説教よりも最高の説教をしたのは教会のネイティビティー(イエスさま、マリア、ヨセフのモニュメント)かもしれない。先月の「きずな」でこのネイティビティーを是非教会にということを記した直後、奇跡的に米ルーテル教会の牧師の手によって特大のネイティビティーが東京教会に到着した。空気によって膨らむ大きな聖家族であった。やわらく優しい表情のヨセフとマリア、そして飼い葉桶にすやすやと眠るイエスさま、そしてそんな救い主を覗き込むロバと子羊がとてもかわいらしい。予感は的中、このネイティビティーはあっという間に教会の人気者になっていた。教会外のコーラス練習のご婦人たちに「かわいいわね〜」と早速に囲まれていた。横で記念撮影を撮るカップルも。流石二メートルの大きさを誇るだけある。礼拝後にヨセフと握手して帰る方もいれば、イエスさまに触れて帰る方も。頭を撫でられすぎた小羊はクリスマスを待たずに倒れてしまうほど。
 そんな中、嬉しい出来事を耳にした。少しお耳の不自由な方が教会に来られ、このネイティビティーをご覧になり「かわいい、かわいい」ととても喜ばれたと聞いた。何故だか大きな喜びがこころのなかに溢れてきた。クリスマスの説教が聞けずとも、ネイティビティーが救い主の御生まれをその方に語ってくれたのである。色々なことがあったクリスマスだったが、この出来事が一番わたしを安心させてくれた。「大勢の前でいかに善い説教をするか」という事にどうしても気が行ってしまう。けれどもわたしが伝えるべきはただひとつ、イエス・キリストの御生まれのみである。
 その事だけをただただ純粋に人々に届けたのはこのネイティビティーであった。信仰の有る無しを超えて、そして言葉さえも飛び越えて人のこころの奥底へとクリスマスの物語を届けてくれたのである。もしかしたら本当に大切なことは言葉で説明する必要もなければ、それさえも不可能なのかもしれない。「そこに居るだけで嬉しくなる」「会えることが喜びに」クリスマスの登場人物たちは皆そう思ったはずである。そのような喜びだけが本当にこころに残るのであろう。年が明けた新年、徐々に薄れていくクリスマスの余韻の中、このネイティビティーを倉庫に締まった。しばらく会えないと思うと寂しくもなる。倉庫の扉を閉めながら「我がこころの飼い葉桶にも主は宿れり」ともう一度、ネイティビティーをこころに膨らませるのであった。

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きずな  2007年12月号

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映画「マリア」より −ネイティビティーを探して−

関野 和寛

 気がつけば今年ももう12月。今年は青年たちと一緒に教会の飾り付けをした。クリスマスを前に今年はどうしても欲しいものがあった。それはネイティビティーセットである。キリスト教圏の国に行けばクリスマスの時期になると必ず教会の前にマリア、ヨセフ、そして飼い葉桶に寝かされたイエスさまの人形が置いてある。これがネイティビティーセットである。だが日本では何処を探してもこのネイティビティーセットが見当たらない。小さなものであればキリスト教系のお店で買う事ができるが、目立つ大きな物は何処にも売っていない。デパートに行っても大きな物といえば、サンタさんやトナカイ雪だるまだけ。何処を探しても飼い葉桶のイエスさまは見当たらない。こんなに街は賑やかなのに何処にもあのお方がいない。クリスマスの主人公は必要とされていなく、また商品としての需要さえ無いようである。
 「皆に喜んで欲しい、道行く人にクリスマスの出来事を伝えたい」そんな願いをネイティビティーセットに託したいが、どうやらそれは叶わないようである。そんな中、近頃密かに話題になっている映画「マリア」を見に行った。「パッション」ほどの話題性は無いが、クリスマス前にこの日本でもキリストの誕生物語が上映されるのだ。スクリーンに描かれていたナザレやベツレヘムの街の砂埃、人々の生活の匂いなどが自分の目の前に迫ってくるような感覚であった。そしてマリアを演じる若干17歳のキャサリン・ハードウィックの演技が実に絶妙。聖書の記述に基づく台詞や演技はもちろんなのだが、彼女の顔が終始不安そうである事が強烈な印象を与える。貧しい生活、そしてその身に告げられた救い主を宿す運命が少女に重くのしかかっている。星や砂漠より羊飼いよりもこのマリアの表情が一番の演出であった。その溢れるほどの不安も最後はイエスさまの誕生と共に小さな微笑に変わった。
 映画の幕が閉じ、最後に映画原版タイトルが大きく浮かび上がる。それは「ザ・ネイティビティー ストーリー」であった。邦訳では「マリア」とされているが本当はネイティビティー、救い主の誕生なのである。探していたネイティビティーをひとつ見つけた。


クリスマスに寄せて

山之内正俊

 二千年前、神様はこの世に御独り子を人間として生まれさせられました。その時の神様のお気持はどのようなものだったでしょうか。あれから二千年経った今、神様はどのような気持でおられるのでしょうか。
 神様が、ご自身が神であることを喜びたいと思われたことから全てが始まります。神様の本質は愛です。その神様が、ご自身が神であることを喜びたいと思われたということは、愛を発揮したいと思われたということです。愛には受け手が必要です。その愛の受け手として造られたのが、私たち人間です。神様は、神としての喜びを味わうために、ご自身の愛の受け手として、我々人間を創造されたのです。我々人間一人一人は、神様の愛の相手としてのみ存在の意味があります。
 神様は、人間との間に愛を成り立たせるために、人間に自由を与えられました。自由な者と自由な者との間にしか、愛は成り立たないからです。神様が人間に自由を与えられたとは、人間に神様に従う能力と共に逆らう能力を与えられたということです。創世記二章の、神様が食べてはならない木を植えられた話は、このことを言い表しています。人間がこの自由を神様に向けて発動している間は、神様と人間の関係は神様の御心の通り豊なものでした。神様は人間を造られたことに大いに満足され、人間もまた神様の恵みを享受し喜びに満ちていました。
 しかし、人間は、与えられた自由を神様に逆らう方向で行使し、神様と人間の関係を自ら破壊してしまいました。即ち、食べるなと言われていた木の実を食べてしまいました。この時から人間の不安と苦悩が始まりました。神様はこの時、人間を造ったことを後悔されました(創世記六章六節)。我々人間は、自らを神様の怒りの対象へと堕としめてしまったのです。人間存在の意味の喪失です。
 だが、ここで、神様の愛がその本領を発揮します。愛する価値のないものをなおも愛し、愛する価値のあるものへと生まれ変わらせるのが、神様の愛の力です。この愛が、人間としての意味を失った我々へ注がれることによって、我々は人間へと回復されるのです。
 神様は、我々神様に背いた人間へ向けるべき怒りをご自身の独り子へ向けるという仕方で、この愛を現わされました。神様から遣わされた神様の御独り子が、我々神様に背いた人間へ向けられた神様の怒りを、我々の直前で受け止めて下さったのです。それがあの二千年前に起こったイエス・キリストの十字架です。そのことのために、神様の御独り子はこの世に人間として生まれられたのです。
 二千年前のあの時の神様のお気持ちは、人間との間に愛を回復したいということでした。人間に人間としての喜びを回復させることでした。そのことによって、神様ご自身が、神としての喜びを回復されるためです。今、神様は、神様がなさったこの救いの業を、全ての人間が受け入れるのを忍耐しながら待っておられます。この神様の忍耐に仕えるのが、私たち教会の唯一の使命です。
 二千年前にこの世に降って来られた神様の御独り子は、弟子たちに神様の愛を伝え、天に昇って行かれました。その弟子たちは、次の弟子たちにその愛を伝え、またその次の弟子たちに伝えて、今、私たちにまで伝えられました。この神様の愛を一人でも多くの人に伝えましょう。それが、神様の忍耐に仕えることです。

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きずな  2007年11月号

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子供のように

山之内正俊

 イエス様は、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われます。
 このときの「子供のように」とは、どういう意味でしょうか。それは、「自分で判断しないで、相手をそのまま受け入れる」ということだと思います。イエス様を見ると、その人が良い人か悪い人か判断することもなく、イエス様に駆け寄り、イエス様に抱きついていく、そのような子供たちの姿をイエス様は頭に描いておられるのだと思います。
 「人見知り」という言葉があります。子供が成長過程の一時期に、見知らぬ人を見て、きらったり、はにかんだりすることです。発達心理学によると、起こるべき年令に達しても、この「人見知り」が起きないのは、その子供が人の識別がつかない発達遅れで、問題があるのだそうです。そのように、子供は人を識別して、相手に応じて行動するのが、発達心理学的には正常なのだそうです。
 そうすると、イエス様の仰った「子供のように」というのは、「自分で判断しないで、相手をそのまま受け入れる」という意味ではないことになります。人を見て識別して、その人に応じた対応をするのが、正常に成長している子供だからです。
 子供は、普通の人間に対しては、その人を識別して、相手次第で行動を変えるでしょう。でも、イエス様に対してはどうでしょうか。イエス様に対しては、どんな子供も、まるで自分の母親に飛びついて行くように、駆け寄って行くのではないでしょうか。大人は、イエス様をうさんくさく遠巻きに眺めるでしょうが、子供は、目を輝かせながら、イエス様に飛びついて行くのです。そのような、子供たちをイエス様は両手を広げて迎えてくださいます。
 この時の子供のように、私たちは神の国を受け入れなければならない、とイエス様は仰っておられるのです。私たちも目を輝かせながら、イエス様に飛びついて行きましょう。


グロリアを歌いたい

関野 和寛

 わたしは神学生時代、インターンの7ヶ月間を熊本で過ごした。熊本の教会には耳が聞こえない方々が来ておられ、またわたしの指導牧師は手話の先生でもあった。わたしもその中で手話を習ったが、恩師が「手話をする時は伝える事をこころの中に描くのだよ」と教えてくれた事が強烈に印象的であった。つまり手話で相手に何かを伝える時は、こころの中の出来事しか伝えられないということである。「昨日電車に乗った」という事を伝えるときは、その場面を思い浮かべなくては手がそれを表現できないのである。同時にそれは嘘をつけないということでもある。本当は悲しいのに手で「嬉しい」と表現してもそれは相手には伝わらない。人間が他者に何かを伝える時に、言葉(原語)が占める割合はごく僅かであり、表情や態度などの非言語的要素の役割は9割以上であるとも言われている。思い浮かべるこころ、それを相手に伝えることを学ばされた7ヶ月間であった。
 そしてわたしは時に今のルーテル教会の礼拝はこころの豊かさ、与えられる神の恵みを半減させてしまっていると思っている。それは礼拝が式文にそって進められているからである。式分そのものを否定している訳では全くない。だが例えば、祈りの時多くの人が式文に書かれた祈りを黙読していて、目を閉じて手を合わせて祈っている人は少ない。目を開けて、祈りの言葉を目で追うことは祈りではない。
 ルターの宗教改革はいかにして聖書の言葉(神の恵み)を自分のものにするかということであった。例えばルターは聖餐式の設定の言葉、キリストの約束の言葉を民衆の理解できるドイツ語で行なうことを司祭に求めた。そればかりかパンと杯を高く上げ、民衆全員に届く大きな声ではっきりと聖餐を行なうように求めた。それは聖餐式の設定、キリストの約束の言葉にこそ力があるからである。
 わたしたちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われた「取って食べなさい。これはあなた方の為に与えるわたしの体である。わたしの記念のためこれを行ないなさい」。
 最後の晩餐の席上で語られた主のこの言葉は、まさに最後の言葉であり遺言であった。主と弟子たちの最後の食事、全ては理解できなくとも弟子たちは主の言葉に真剣に耳を傾け、そしてそのパンを見つめたのである。だが教会ではこの聖餐の時でさえ式文を握り締めている人が大勢いる。そうであってはならない。誰が遺言を聞く時にその人の目を見ないであろうか。ましてや礼拝とはキリストが、集う全ての人に恵みの約束(福音)を語る奇跡の場である。
 キリストの言葉に耳を傾け、そしてキリストがわたしたちの為に苦しまれたあの大きな十字架へと目を上げて欲しい。そのことばに耳を傾け、そして最後の晩餐を、そして十字架のお姿を思い浮かべる時、わたしたちのこころはあのお方の目の前へと手繰り寄せられる。もうすぐクリスマスがやってくる「天には栄光神にあれ!」上を向いてグロリアを歌おう。野宿して夜明けを待っていた羊飼いたちが歌う天使たちを見上げたように。キリストを想うこころに、キリストは宿られる。

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きずな  2007年10月号

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キリストバザール

関野 和寛

 10月8日(祝)の体育の日に東京教会も恒例のバザーを持った。今回の売上は神学校の寮改築と地域福祉の為に用いるということで目標を40万円と決め皆で準備をしてきた。教会の皆だけでなく、恵泉幼稚園の卒園生や近所の方々も毎日のように沢山の物品を持ってきてくれた。
 当日は世代を超えて教会の皆が一丸となって働いて、多くの人々が教会に買い物に来て、そしてそして目標の40万円を突破!大きな歓声が上り、喜びが一気に膨れ上がる。
 バザーは世界各地で様々な呼ばれ方をしている、英語"boot fair"(それぞれの家庭でいらなくなったものをトランクに入れて持ち寄る)"rummage sale"(かき回して売る)など。どこの国でも不用品を持ち寄って販売し、それを慈善事業に用いると言う発想は変らない。教会でももちろんそうだ。
 むむ、あまり役に立たないもので慈善事業・・・ 考えてみるとキリストさまも多くのバザールを開いている。少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で何千という人々の空腹を満たしたり、はたまたワインの足りなくなった結婚式で水をワインに変えたりと。極めつけはパンとワインで天国の食卓までも披露。
 小さなもの、役にたちそうにないものでもあのお方の手に掛かれば大きな喜びに変えられる。礼拝に来るときに「わたしなんて・・・」と思ってはいないだろうか。誰かを教会に誘う時「あの人は無理だろう・・・」と諦めてはいないだろうか。そんなことはない。「この願いは叶わないだろう・・・」、そんなことはない。「こんなこと祈っていいだろうか」、それでよいと思う。教会こそ、礼拝こそはキリストバザール。ひとりでももっと、あなたの祈りをもっと。あのお方の十字架の前に集められるものは、すべて大きな喜びに変る。
 役に立たないものなど何もない、届かない祈りもまたない。皆の祈りを集めて、涙さえも集めてあのお方の前に並べよう。ひとりでももっと、祈りと願いをもっと。もっともっと喜びが大きく膨れ上がる教会であることを祈りつつ、宗教改革の日を待ちわびる。


信仰の継承

山之内正俊

 子どもに信仰を如何に伝えるか。これは、信仰者にとって一番大切な働きといえるでしょう。その前に、子どもをどう育てるか、そこには何か秘訣があるのか。そのことを考えてみたいと思います。
 わたしは、子育てには一つだけ秘訣があるように思います。それは、両親が仲良くすることです。両親が仲良くするといっても、何も子どもの前で、夫婦がいちゃいちゃする必要はありません。夫婦が、互いに信頼し合い、尊敬し合っているかの問題です。
 子どもにとって両親は大人の代表です。子どもは両親を見て、大人の世界、つまり、人間の社会を想像します。子どもは、身体は自然と大人になっていきますが、心はそうはいきません。子どもが非行に走るのには、必ずといっていいほど、両親に問題があります。夫婦の不和です。自分の両親の不和の中で暮らすうちに、子どもは知らず知らずのうちに、大人に失望し、無意識のうちに自分が大人になることを拒否するのです。大人になりたくないという思いが、子どもを非行に走らせるのです。子どもにとって、自分の両親が仲がいいと、自然と大人になることへの喜びが生まれます。なにしろ、子どもにとって自分の両親は、大人の代表、社会の窓なのですから。仲の良い両親のもとで、子どもは身体と共に心も大人になっていきます。そうなるとしめたものです。夫婦の仲がよいこと、これが子育ての秘訣です。
 さて、信仰の継承ですが、これにも秘訣があります。それは、信仰の実践の中に子どもを置くということです。実践の中で、信仰は伝わって行きます。
 まず、お母さんのおなかの中に赤ちゃんが宿ると、その時から、赤ちゃんを交えた信仰生活を送ることです。夫婦で祈るときも、そこに赤ちゃんがいることを意識して祈ることです。そして、赤ちゃんが生まれると、赤ちゃんと共に祈ることです。赤ちゃんは、初めは何の反応も示さないでしょう。しかし、親が気付かないうちに、赤ちゃんは親の祈りに合わせて、「アーメン」と唱えるようになります。物心ついてから、改めて祈りを教えるというのではなく、祈りの実践の中に子どもを置くことが肝要です。
 ここで、大事なことは、親自身の信仰です。幼い子どもにとって親は絶対的存在です。その絶対的存在である親にも、絶対的存在としての神様がおられるということは、幼い子どもにとっては、不思議であり驚きです。そこから、幼い子ども心に、神様への畏敬の念が生まれて来ます。自分が、何より偉いと思い込んでいる自分の親よりまだまだ偉い存在があるということを知ることは、子どもを謙遜にします。聞く姿勢が生まれます。この聞く姿勢が、信仰を育てる土台です。
 「信仰はその人の人間的な決断が命だから、信仰は本人に任せるべきだ。だから、大人になって自分で決断するまで、信仰のことは放っておくべきだ」、というもっともらしい意見があります。これは、間違いです。なぜなら、この意見は、人間が罪人であることを忘れているからです。罪人とは神様に逆らっている、ということです。神様は、自分に逆らっている人間に、自分との愛の関係を復活しようと、神様の方から近づいてこられます。この神様の働き掛けを実践するのが信仰の継承です。神様は、人がまだ幼子のうちに近づいて来られます。その神様の働きを担うのが、親の信仰継承の働きです。

 

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